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 秋本が出て行った後で秋絵は今度の旅行の荷物を出口の脇にまとめて置いた。

「向こうで買えるものは向こうで買えばいいから。本当に必要なものだけ持って行くわ。」

荷物を見ながら秋絵が独り言のように呟いた。

「そろそろ着替えたいんだけど。秋絵、手伝ってくれないか。」

 ベッドの上で体を起こすと僕は秋絵を呼んだ。秋絵は答える代わりに用意してあった綿のズボンとトレーナーを持って来た。僕は秋絵に渡されたズボンをはこうとして立ち上がった時、大きくよろめいて秋絵に支えられてかろうじて止まった。

 ほんの一週間ばかり伏せっていただけでこんなにも体力が衰えてしまったのが僕にはかなりの衝撃だったが、そうして生命力を殺がれていって死んでいくのだろうと思うとそれも仕方がないことのようにも思えた。

 結局秋絵に手伝ってもらって何とか着替えを済ませてからベッドには横にならずに椅子に座って車を待つことにした。

 七時少し前に、秋本が「車が来た。」と知らせてきた。

「車椅子を取ってくる。」

そう言って立ち上がった秋絵を制した。

「多分これが最後だろうから自分で歩いていくよ。」

 椅子の背につかまりながら僕はゆっくりと立ち上がった。そして両足が自分の体を支えられることを確かめてから椅子の背につかまっていた手を離してドアに向かって歩き始めた。体は随分痩せて衰えてはいたが、それでも自分の体重が膝に食い込むように重かった。

 廊下に出てから手摺につかまって体を支えながら出口に向かって歩いて行った。広くもないロビーを横切るのに随分てこずってやっとのことで玄関に辿り着いた時にはもう息も絶え絶えの有様だった。それでも他人の力を借りずに車に乗り込めたことに満足していた。僕が車のシートに体を沈めるようにして座り込んでいる間、秋絵と秋本は荷物を車に積み込んでいた。

 車は静かに病院の前を離れるとしばらく街の中を走ってから高速に入った。そして一週間前と同じようにビルの間を流れるように進んだ。

「東京ってあなたが言っていたように本当に大きな街だったのね。東京がこんなに大きいなんて今まで考えたこともなかった。この街の中に一千万のそれぞれの思いが、それぞれの行き場を探しているのかも知れないね。」

 秋絵は僕を振り向いた。僕はその秋絵の顔を見る代わりに窓の外の景色に目を向けた。この間と同じように光に溢れた巨大な街並みが何処迄も続いていた。

 車がホテルの玄関に止まるとドアボーイが小走りに駆け寄って来てドアを開けてくれた。まず秋絵が降りてから僕もそれに続いた。一目で重病と分かったのかボーイが「車椅子を、」と言いかけたのを手で制してフロントに向かってゆっくりと歩き出した。

 相変わらずそれが僕にとって大変な体力の消耗を強いられる作業であることに変わりはなかったが、病院の時と比べれば少し慣れたせいか随分と楽に感じた。

 秋絵はカウンターで手続きを済ませてから大きな荷物は預けたまま手荷物だけを持ってロビーで待っていた僕のところに駆け寄って来た。そして僕の腕を取ってエレベーターへ導いた。そんな秋絵の姿が『ほんの一時でも側を離れない。』という彼女の強い意思を感じさせた。

 部屋に入ると僕は椅子に腰掛けた。秋絵は秋本の部屋に行って点滴液のパックを取って来た。そしてそれをスタンドに掛けて僕の胸のチューブに繋いだ。

「苦しくない。疲れていない。大丈夫。」

秋絵は似たような質問を何度も繰り返した。

「大丈夫。何ともない。」

 秋絵に聞かれる度に僕は同じ答えを繰り返した。今までなら鬱陶しくて黙り込んでしまいたくなるような秋絵独特のものの聞き方も今は何も気にならなかった。そしてそれと同時に何故秋絵のそんな聞き方が気にならなくなったのか自分なりにその理由を考えてみた。僕の頭に「愛情」という答えがすぐに浮かんだ。

 秋絵と僕はこれまで一〇数年間、お互いに相手をねじ伏せることばかりに心血を注いで相手を受け入れることなど考えもしなかったのではないか。でも本当はお互いに待ち続けていたのではなかったのか。相手が自分に心を開いてくれるのを。そんなことを考えながらまたテリーの言葉を思い出した。

 『楽しかったら笑えばいい。悲しかったら泣けばいい。怖がることなんか何もない。ありのままの自分で生きればいい。』

 テリーはそう言った。もしかしたら俺達はずっと待っていたのかもしれない。相手が自分を受け入れてくれるのを。ただありのままの自分で相手の前に立つことが怖かっただけなのかも知れない。一度心の中でなぞってから今度は実際に口に出して秋絵に向かって自分が考えていたことを言ってみた。秋絵は椅子の背に立って僕の肩に手を置きながら顔を寄せた。

「分からない。本当に分からない。でもあなたが愛しい。自分でも信じられないくらいあなたが愛しい。」

 秋絵の震えが肩や頬を通して伝わってきた。声は聞こえなかったが、秋絵が泣いているのがはっきりと分かった。何か適当な言葉をかけて秋絵を慰めようかと思ったが、うまい言葉は思いつかなかった。たとえ適当な言葉が見つかったとしてもきっと役には立たなかったと思う。

「もういいじゃないか。俺達はもう充分に精一杯生きたんだから。そしてお互いに最後には中々いい結果を出すことが出来たんだから。それで充分じゃないか。」

それまで声を押し殺して体を震わせていた秋絵が声を上げて泣き出した。

「残酷よ。こんな残酷なことってないわ。やっと探し続けていたものに巡り合ったのにその瞬間にお終いなの。それじゃあんまりじゃないの。」

「僕たちには時間はあった。一〇何年も。それに探していた訳でも気がつかなかった訳でもない。気がついていながらそうしてこなかっただけだ。要するに自分のしたことが自分に返って来ただけだよ。でもこんなに短くても随分素敵な生活じゃないか。」

 秋絵は泣くのをやめたようだった。秋絵が泣くのを止めた後、部屋の中にはしばらくの間湿った沈黙が漂っていた。

「馬鹿ね、私って。何時もあなたに慰められてばかりで。これじゃ全く逆だよね。もう泣かないわ。ごめんね。」

秋絵は僕の肩を撫でながら顔を寄せたまま動かなかった。