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 秋絵はシャワーを使ってから、体にタオルを巻き付けただけの姿で戻って来た。

「さすがにもうこの間のようには出来ないと思うけど。」

 冗談のつもりで言ったのだが、秋絵は真面目な顔をしたままで微笑みもしなかった。片手でタオルを押さえながらベッドの端に腰を下ろした。

「私、本当はあなたをイギリスには連れて行きたくない。嫉妬しているんじゃないの。テリーさんという人にあなたを会わせるのを。あなたをイギリスに連れて行けばあなたの命は確実に縮まる。もう日本には帰ってこられないかも知れない。

 でもここで治療を受けていればもっと長く生きていてもらえる。私の側にいてもらうことが出来る。だから本当はあなたをイギリスには連れて行きたくない。でも、もしも私が連れて行かないと言えばあなたは独りでも出かけると思う。だから、私は、あなたを、」

 秋絵はまた泣き出した。僕は体を起こして秋絵の肩に手を掛けた。そして自分の体を倒しながら秋絵をそっと引き寄せた。秋絵はそのまま僕に体を預けると僕の胸に顔を伏せて泣き続けた。そんな秋絵が痛々しかった。そして今まで自分が考えてやってきたことが、秋本や秋絵を酷く傷つけているのではないかとまたそんな思いが込み上げて来た。

「私、何も出来ないのに、あなたに負担ばかりかけてごめんなさい。」

すすり泣きの混じった秋絵の声が聞こえた。

「もう泣くなよ、秋絵。一緒に行こう、英国まで。もうこれが最後なんだから明るくして行こう。泣いていても良くなるわけじゃないし。なあ、秋絵。」

 子供に呼びかけるように僕は秋絵に呼びかけた。秋絵は小さくしゃくり上げながら黙って二、三回頷いた。それから秋絵は僕の胸に顔を寄せたままじっとしていたが、しばらくすると黙って起き上がって着替えをしてからベッドの脇に戻って来た。そして何も言わずに僕の腕を取ってそのまま何時までも撫でていた。

 何時の間にか眠ってしまった僕は「検温です。」と言う看護婦の声で起こされた。体を起こして部屋の中を見回すと、秋絵がスーツケースに衣類を詰め込んでいる姿が見えた。

「おはよう、良く眠れた?」

 秋絵は僕の方を向いて笑顔で声をかけた。それに肯いてから看護婦から体温計を受けとって脇の下に押し込んだ。

「支度はほとんど終わったわ。後は夕方成田の日航ホテルまで行って。とうとう始まるのね。」

秋絵は顔を上げずに、スーツケースの蓋を閉めながら言った。

「三七・四度。電話でナースステーションに伝えて。」

「少し熱っぽいのね。大丈夫かな。」

秋絵は独りごとのように言いながら、インターコムで僕の体温を伝えた。

「午前中、ちょっと職場に行って挨拶してくる。もうしばらくは顔を出せなくなるから。でも、昼には帰ってくるから待っててね。もう支度は終わっているから。何時頃、出かけようか。」

「暗くなってからがいい。もう一度、明りの点った東京を見てみたい。」

 秋絵は黙って僕の顔を見つめていたが、何も言わずに頷いた。秋絵が部屋を出て行ってしまうと僕は独りで部屋に残された。ここに来てからまだほんの一週間ばかりだが、随分長い時間が過ぎ去ったように感じた。

 ここに来た頃は死という避け難い現実に怯えきっていた。独りでその避けることの出来ない現実に立ち向かおうとして打ちのめされて恐れおののいていた。それが二度の吐血でより具体的にそして現実味を持って自分に迫ってきた今の方が穏やかに死を見つめてそれと共存とまではいかないもののそれなりに自分の死を受け入れられるようになったことは理由はどうあれ大きな苦痛が和らいだという意味では歓迎すべきことだった。

 どうして自分の死を何とかそれなりに受け入れられるようになったのかその理由をぼんやりと考えたが、特には思いつかなかった。ただ秋絵の僕に対する態度が変わったことが影響しているようにも思えた。もしも秋絵が『最後まで望みを捨てずに。』とか『勇気を出して病気と闘って。』といった月並みな励ましの言葉を僕に投げ掛けていたら、僕はとても今のように自分の死を受け入れようとする穏やかな気持ちにはなれなかったに違いない。

 おかしな言い方かも知れないが、秋絵自身が僕の死に直面してその現実におののいて裸の自分をさらけ出して取り乱してくれたことに何かしら安らぎを感じたことはどうも間違いないようだった。秋絵が本当に僕の心境を完全に理解している訳ではなさそうだったが、秋絵は秋絵なりに自分の立場で自分の苦痛と格闘しているのだろうが、それでも独りで突然降って湧いたように目の前に現れた自分の死と対面してそれに耐えるのとでは随分違っていた。

 今まで大抵のことには独りで耐えて来た。他人に頼ろうという気にもならなかったし、身の回りに頼るべき相手もいなかった。秋本はそれなりに頼りにはなったが、今回は全く立場を異にしていたから考慮の外だった。

 そんな状況で今回の人生最悪の問題にも独りで対処しようとしたがさすがに勝手が違っていた。感情や理性といった自分で制御出来るものならいざ知らず本能という自分では制御不能なものが勝手に恐怖を感じて浮き足立ってしまってはどうしようもなかった。

 そんな時にその恐怖に狂った本能を鎮めてくれたのがテリーだった。そしてそのテリーから離れてまた本能が暴れ始めた時に思いがけなく秋絵がそれを鎮める側に立ってくれた。

「他人に頼らないというのが自分なりにいい生き方だと思っていたのに結局最後に他人に支えてもらうことになってしまった。でも今まで人に恵まれないと思っていたけど、案外本当に必要な時は人に恵まれていたのかも知れない。」

 誰もいないことをいいことにそんな独り言を呟いてみた。そしてゆっくりベッドに体を横たえるとそのまま目を瞑った。目が覚めた時にはもう夕方近かった。

「起きたの。良く眠っていたから、起こさなかった。」

 秋絵の声が遠くで聞こえた。随分長く眠っていたような気もしたし、ほんの一時まどろんだだけのようにも思えた。

「もう出かける時間か。」

「まだもう少し。七時に車が来るわ。支度は全部済んでいるから。それからね、秋本さんもホテルまで一緒に来てくれるって。だから部屋を取って差し上げたの。」

「そう。」と答えて言葉を続けようとしたところに秋本が入って来た。

「点滴の残置チューブの処置をしたい。いいかな。」

 秋本はベッドの脇まで来てそれまでの点滴バッグのチューブを引き抜くと秋絵を振り返って二、三回チューブを丸めて見せた。

「移動したり長い間使わない時にはこうしておいて、」

秋本は実際にやって見せて説明をしてからチューブをまとめてテープで止めてその上をガーゼで覆った。

「成田まで御一緒させてもらっていいかな。」

秋本はおどけた調子で言った。僕と秋絵は黙って微笑みながら頷いた。

「車が来たら呼びにくるよ。」

そう言い残して部屋を出ていこうとした秋本を呼び止めた。

「もうそんなに意識して明るくしなくてもいいよ。それなりに受け入れることが出来そうだから、普段どおりにしていてくれ。お互い、かえって堅苦しくなるから。」

 秋本はほんの少しの間黙って僕の顔を見ていたが、顔を歪めるようにして造った笑顔を見せると黙って部屋を出て行った。