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 それからの三日間はほとんど検査で終わった。その中には拒否したいようなものもあったが、秋本の真剣な顔を見ていると何も言えずに黙って従った。秋絵はしばらく仕事を休んで僕に付き添うことにしたそうで毎日病室に泊まり込んで片時も僕の側を離れなかった。

 それはそれで煩わしいことがないわけではなかったが、それでも秋絵の真剣な顔を見ているとあからさまに苦情を言うわけにもいかずにこれも黙って受け入れていた。その間、空いた時間に航空機の手配や入国ビザの申請などイギリスに行くのに必要な手続きを秋絵に手伝ってもらって進めた。

「ビザ無しの短期滞在で充分だ。そんなに長くは必要ないだろう。」

 僕がそう言ったら皆嫌な顔をして黙っていたからきちんと査証を取って入国することになった。それにしても困ったのはどうして栄養補給するかということだった。出血があることから普通に食物を摂ることは出来なかったし点滴も限度があった。結局、高カロリー点滴を使用して足りない分を流動物で補填することで当分様子を見ることになった。

 点滴は日本から数日分を持参して後は向こうの医者から調達することにしてもらった。また点滴の交換は秋絵が習っていくことになった。

「そうすればあなたは私が必要になって離せなくなるから。」

秋絵は扱いを習いながら悪戯っぽく笑った。

「よろしくお願いします。」

 そう言って秋絵に笑い返したが、本当のところこうして皆の言うことを聞いていたのは自分の体を気遣ってのことではなくイギリスに行ってもう一度テリーに会うためだった。もち論自分を気遣ってくれる秋本やそして秋絵へのせめてもの思いやりのつもりもあったが、自分にとって死は避けることの出来ない唯一の現実であることに変わりはなかった。

 死に対する恐怖は未だに自分の行く手に立ちはだかってはいたが、だからと言ってどんな姿になってでも少しでも長く生きようという思いは自分の気持ちの中にはほとんどなかった。それよりも他人の前に自分の病んで衰え果てた姿を晒したくはないという気持ちの方がはるかに強かった。

 血管が破れて大出血を起こしてその結果死に至るかも知れないということについてはそれを告げられた時には随分とショックだったが、今になってみるとそれが何時起こるか分からないものの適当な時期に起こって短時間に都合よく自分の命の火を消してくれればそれも好都合だとも思うようになってきた。

 自分に残された命の長さの他に関心のあることがもう一つあった。それは金のことだった。テリーは向こうにいる時に何度か『金が必要だから売春をしている。』と言っていた。孤児を養っていることは知っていたが、実際どの位の金が必要なのかは言わなかったし僕も聞きもしなかった。

 それでもそのことは心の何処かに引っかかって残っていた。そこで秋絵にも相談したうえで自分の資産を整理して必要な額を差し引いた残りの内から二千万円をポンドに換金して口座に振り込んで貰っておいた。

 秋絵は金については「自分もそれなりの蓄えがあるからあなたのお金はあなたの好きに使えばいい。」と言って特に何も聞かなかった。僕にしても換金した約十万ポンドの金の外に自分で何かのためにと思って貯めていた金を足した邦貨にすれば三千万円近い金についてはどうしようという当てもなかったが、もしもテリーに会えたら金のことを聞いてみるつもりだった。そして彼女が受け入れるのならその金を渡してやるつもりだった。

 そうこうしながら身の回りのことが一つ一つと片付いていくにしたがって自分の未練も一緒に整理されて気持ちも落ち着きを取り戻していった。自分達の生活の利便を考えて都内に購入したマンションと全くの自分の趣味で南アルプスの麓の村に購入した小さな別荘のローンの残金については自分の生命保険の金で相殺するようにと秋絵には話しておいたが、保険の生前給付金の請求手続きについては秋絵が強行に反対したことからやめることにした。それ以外にもこれも自分の趣味で随分金をかけた車も業者の言い値で売却してしまった。

「別荘も秋絵が使わないのなら売り払ってしまえばいい。最もこの時期に売っても大した金にはならないと思うけれど。」

そんなことを独り言のように言うと秋絵は僕の方を振り返って寂しそうに笑った。

「使うかどうか今は何も考えられないけれどしばらくはそのままにしておきたい。」

「残っている財産はもうこんなものかな。後は本くらいか。売れば値の張るものもあるけれど大方は二束三文だからどうしたものかな。適当に処分してくれ。」

そんなことばかり話している僕の側に秋絵は黙って歩いて来て椅子に腰を下ろした。

「どうしてそんなに急いで何でもかんでも処分しようとするの。帰って来てからゆっくり相談して決めてもいいでしょう。この先だってどうなるか分からないじゃないの。」

 あの晩から秋絵は随分と変わっていた。何でも痒いところに手が届くように僕の身の回りの世話をしてくれた。それが秋絵の本心なのか僕に対する同情なのか自己満足のためなのか正確なところは分からなかったが、秋絵が変わったことだけは確かだった。

 秋絵にとって僕がこの世からいなくなってしまうことが一体どんな影響があるのかそんなことも具体的には思いもつかなかったが、深みの奥から無理やり絞り出しているかのように、重く、低く、そして沈んだ調子の秋絵の声を聞いていると秋絵は秋絵なりに避けることの出来ない運命と全く勝ち目のない戦いをその結果も充分に承知したうえで戦い続けていたのかも知れない。

 僕の方は秋絵とは対照的にこれまでの自分の生活が一つ一つ片づいて消えて行くに従って諦めとは違った軽い感情が生まれ始めていた。これまで自分の生活に深く関わってきたものや生活の場所といったそんなものが身の回りから消えていってしまうことが、一つの世界の終焉であると同時に何かまた新しいものが始まる兆しのようにも思えた。

 そんな自分に都合のいい勝手な思い込みが心を軽くしているのかも知れないと思い直して苦笑してみたもののこんな時そんな思い込みでもなかったらとても普通の状態では生きてはいられなかったかも知れない。  

 そうこうしながらそれなりに身の回りも片付いてイギリスに行く準備も整って来た頃二度目の吐血があった。一度経験していたのでそれほど慌てもしなかったが、来るべきものが確実に近づいてきているということを実感した出来事だった。とりあえず自分で吐いたものの始末をつけてから秋本を呼んで吐血したことを伝えると秋本は顔を曇らせた。

「イギリスに行くのを中止する気はないだろうな。」

 秋本が念を押すように尋ねた。僕がベッドに横になったまま黙って頷くと秋本は本当に困ったという顔をした。

「正直言って今のお前には長距離の移動に耐えるだけの体力はないと思う。無理して出かけて行っても・・。もう少しここで体を休めてから出かけるつもりはないか。少し体調を整えて。」

『ここで治療を受けて回復するという保証があるのか。たとえ一時的にでも必ず元気になって出かけられるという保証があるのか。もう分かってるよ。自分の命が消えかかっているってことは。だから急いでいるんだよ。』

 心の中でこれだけ言っておいてから、秋本に向かって黙って首を横に振った。秋本はまた一段と暗い顔をして溜め息をついた。

「俺にはお前を助けることは出来ない。でも死なせたくないんだよ。少しでも長くお前を、」

「秋本、お前の気持ちはよく分かっている。本当に感謝している。でもな、俺の時間はもうほんの僅かしか残っていないんだ。分かってくれ。」

秋本の言葉を遮るように言葉を割り込ませた。最後まで言われたらまた心を動かされたかも知れなかった。

「とにかく止血剤を。」

秋本は点滴のバッグに薬品を加えてからチューブに繋いだ。

「出来るだけ安静にしていてくれ。落ち着くまであまり動かない方がいい。これ以上出血を繰り返すと本当に命取りになりかねない。秋絵さんにもよく言っておくから。」

秋本は出口で僕の方を振り返った。僕は秋本に向かって小さく手を振った。

「何かあったらすぐに呼べよ。」

秋本はそれだけ言い残して部屋を出て行った。