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 朝が来ても痛みに変化はなかった。秋絵は朝食を運んで来た看護婦に僕が吐血したことを話して秋本を呼んでもらった。看護婦が慌てて部屋を出て行ってから間もなく秋本が、これもまた慌てた様子で入って来た。

「何故その時すぐに呼ばなかった。何時頃、どの位吐血したんだ。」

僕は秋本の剣幕に気圧されて答えに詰まって吃ってしまった。

「いや、昨夜気分が悪くなって。でもそんなこともあるかなと思って。」

秋本は治まらない様子でたたみかけた。

「そんなことかどうかは医者の俺が決めることだ。秋絵さん、あなたがついていてどうして知らせなかった。」

秋本の怒りは秋絵に向けられた。

「どのみち同じこと。」

「え」

僕と秋本はお互いに顔を見合わせた。

「何だって。」

秋本がもう一度秋絵に聞いた。

「どのみち同じこと。そう言ったの。」

「何が同じことなんだ。森村の、あなたの御主人の命に関わることなんだ。」

秋絵は視線を足元に落としたままで気色ばむ秋本を見ようともしなかった。

「どうして、どうして君までそんな投げやりなことを、」

 僕は二人の間に起こったこの対立の原因が自分であることも忘れてことの成り行きに見入ってしまった。

「とにかく今君と言い合っている暇はない。」

秋本は医者らしく看護婦に指示をして治療の準備を始めようとした。

「秋本さん、ちょっと待って。私の言うことを聞いて。」

「今君に付き合ってる暇はない。言いたいことがあれば後で聞く。」

秋本は秋絵の方を振り向きもしないで治療の準備に専念していた。

「もうこの人の思いどおりにしてあげて。昨夜から随分苦しそうにしている。その苦痛だけでも取ってあげて。」

秋本は手を止めて秋絵を振り返った。

「病気を治さなければ苦痛を取ってやることも出来ないんだ。」

秋絵も秋本に向き合った。

「ねえ、聞いて。私の言うことを聞いて。昨晩からこの人の様子は特に変わっていない。今更そんなに急がなくても大丈夫。この人も治療なんて望んではいない。だから私の話を聞いて。」

秋本は観念したように手を止めて椅子に腰を下ろした。

「あなたも知っているでしょう。昨日この人に抱かれたことを。私は今までずっと自分を鎧で固めて守ってきた。少なくとも私はそうして自分を守っているつもりだった。自分の弱さを人に知られないように。だから私とこの人の関係もそうだった。

 何時も突っかかってばかり。素直になるなんてことを考えもしなかった。『私は負けない。私は負けないって。』一体誰に負けないつもりだったのか今になってみればばかばかしくて笑うことも出来ない。生活もそう。この人とどんどん離れていくのに周りにばかり見栄を張って。

 年に一度だけこの人と旅行に行ってそれもほんの一泊の駆け足で。何をするわけじゃない。ただ何処かの名所に寄って精一杯作り笑いを浮かべて二人で写真を撮って、それを年賀状にして『ほら、私達こんなに仲良くて幸せなんです』って。そんな作り物の幸せを他人に見せるだけのために手の込んだ芝居をして。

 そんな暇があるのならもっとお互いに素直になって話し合えば良かった。いえ、話し合う必要もなかった。ただ一言『あなたが好き』って言えばそれで良かった。自分に素直にそして正直になればそれで良かった。それなのに分かっていたのに私にはそれが出来なかった。自分のちっぽけな虚栄心のために。でも

 昨夜、この人は私に教えてくれた。自分の命を削ってまで私に教えてくれた。時には鎧を外して自分に素直にそして正直に生きなければいけない時もあることを。

 もうこの人の思い通りにしてあげて。やっとこの人にも鎧を外しても良い時が来たんだから。本当は私がこの人の鎧を外してあげて休ませてあげなければいけなかったのに私にはそれが出来なかった。それどころかこの人の命まで削り取ってしまった。そしてやっと自分の鎧を外して休める場所を見つけた時にはこの人の命はもう消えかかっていた。この人にそんな辛い思いばかりさせたのは誰でもない、この私。

 勝手な言い分かもしれないけれどもうこの人が言うようにこの人の好きなところに行かせてあげたい。ねえ、お願いだからこの人が行きたがっているイギリスに行けるようにしてあげて。テリーさんという女のところに行けるようにしてあげて。」

 切々と訴える秋絵に秋本は困惑の色を浮かべて僕の顔を見た。

『一体何を吹き込んで彼女を洗脳したんだ。』

そうとでも言いたそうな顔つきだった。

「とにかく応急処置だけはしておかなくては。止血とそして痛み止めを。」

秋本は看護婦に指示をして点滴液の中に何種類かの薬品を混ぜさせて僕の腕に刺さっている管に繋いだ。

「もう一度聞くがどうなんだ、変わらないのか、お前の気持ちは。どうしても行きたいのか、イギリスへ。そのテリーという女のところへ。」

秋本は『もう諦めた。』という顔つきで僕に聞いた。

「そうだな、行かせてくれるのか。」

「一つだけ条件がある。誰か身内の者が付き添っていくこと。そうでなければ俺は認めない。秋絵、分かってるだろうな。君が一緒に行くんだ。いいな。」

 秋本は秋絵に向かって命令するような口調で言ってから今度は僕に向かって最後通告でもするように言った。

「今のが僕の条件だ。これを受け入れなければ俺は許可はしない。もうお前にも女を抱くほどの体力はないだろう。秋絵が一緒について行っても問題はないだろう。」

 秋本は僕の方を見て笑った。僕はただ秋本の顔を見つめていた。大学を出たての駆け出し編集員だった頃、医学部の取材で知り合って以来もう二〇年近くの付合いになるこの男とも今度英国に出かければもう二度と会うことはなくなってしまうかも知れない。

「本当に世話になった。何も返すことが出来なくて申し訳ない。迷惑をかけついでに後のこともよろしく頼む。」

秋本は僕から目をそらせた。そして僕に背を向けるように窓の方を向いた。

「まだ終っちゃいないよ。もう一度検査し直さなければ向こうの医者に宛てたレポートが書けない。知り合いがロンドンにいる。頼んでみよう。多分面倒を見てくれると思う。今のお前は医者がいなければ生きていけない状態なんだよ。」

「分かってる。」

「生きろよ。お前の言いたいことは分かってる。でも生きろよ。諦めないで最後までお前の人生をきっと最後まで生きろよ。」

 秋本の声は少し震えていた。もしも立場が逆だったら僕も間違いなく秋本と同じことを言ったに違いなかった。

「秋本」

 背を向けていた秋本に呼びかけた。秋本は僕を振り返った。その秋本の顔を視界の真ん中に見据えて「ありがとう。」と一言礼を言った。それに秋本は小さく二、三度頷いて答えた。

『秋本、ありがとう。』

僕は心の中でもう一度繰り返した。