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「あなたは私に優しさをくれた。そして自分の弱さと虚栄心の虜になっていた私を解放してくれた。でも私はあなたに何も返してあげることが出来ない。あなたが望んでいた『雨の軒下で体を寄せ合うような温かさ。』なんてとてもあげられない。」

「そんなことはないよ。秋絵が勇気を出して自分の殻を破って出て来たから僕も少し考え直すことが出来た。これもお互い様だな。さあ、看護婦を呼んでくれないか。点滴をやり直してもらわないと。こんなことがばれたら秋本に怒られる。」

「もう少し、もう少しこのままでいさせて。誰も呼ばないで。どうせ点滴なんて気安めでしょう。」

秋絵は顔を伏せたまま呟いた。声は小さかったが言っていることは随分大胆なことだった。

「随分大胆なことを言うんだな、点滴なんか気安めだなんて。秋絵は随分僕に治療を勧めたじゃないか。自分で気安めと思っていることを勧めていたのか。」

「他にどう言ったらいいの。私だってあなたの病気のことくらい話を聞けば大体のことは分るわ。ただ簡単に『諦めなさい。』と言えばいいの。もう手の施し様がないからって。そんなこととても言えないわ。きちんと治療を受けてくださいって言うより他に何て言えばいいの。言い方なんてないじゃないの。」

 秋絵の言うことを聞いていて僕は声を上げて笑い出してしまった。結構刺激の効いたユーモアだと思った。秋絵にそう言うと秋絵は消え入りそうな声で「ごめんなさい。」と言ったきりしばらくは身動き一つしなかった。それからしばらくしてインターコムで点滴が外れていたことを告げて点滴の針を刺し直してもらった。

 看護婦と一緒に来た秋本は医者らしい口調で「患者の様子をよく見ているように。」と秋絵を叱った。秋絵は秋本に「不注意で悪かった。」と答えてから僕の方を振り返って片目を瞑って見せた。処置が終わってから秋本は看護婦に適時巡回をするように指示をして看護婦を帰してから僕の脇に来た。そして僕の肩を軽く叩いて「野暮は言わないがあまり無茶をするな。」と囁いた。

「どういう意味だ。」

僕が聞き返すと秋本は片目を瞑って見せていたずらっぽく答えた。

「この建物は建てる時に金を渋ったので見かけの割には安普請だ。少し自重してくれないか。一応病院なんだから。」

「最後にお前の希望通りもう一度溌剌とした温かい夫婦に戻るために。でもそんなに聞こえたのか。」

 秋本は半分照れ隠しの僕の言葉に答える代わりにもう一度僕の肩を叩いてから部屋を出て行った。それから僕は秋本のことを考えた。秋本が秋絵のことをそれなりに思っているのは間違いなかった。いくら僕たちがもうすぐ永遠の別れを迎えるからと言っても秋絵が僕に抱かれているのを知っていてただじっとそれに耐えている秋本のことを思うと何となく気が重かった。

「人間というのは思ったよりも優しい生き物かも知れないな。時と相手によっては。」

僕は体を起こして秋絵の方を見た。

「あなたは自分のエリアの内側に入ってくる人には誰にでも優しい。それが悔しかった。自分のこといやな女と思ったことも何度もあったけど私だけに優しいあなたであって欲しかった。」

 秋絵の口から出た『誰にも優しい。』という言葉は僕にとっては意外だった。これまで他人に優しくしてきたという意識はあまりなかった。何より他の女に言われたのであればとにかく秋絵に『優しい。』と言われたことが意外だった。

「あなたは私のことを気遣ってくれた。こんな時にまで他人のことを考えられる人なんてそんなにたくさんはいない。それだけでも私はあなたに会えてよかったと思ってる。悪かったのは私の方。」

「もうそのことはいいよ。やめよう。少し疲れた。休むよ。」

 僕はベッドに横になった。秋絵も何も言わずに僕のとなりに横になった。秋絵が僕の体をそっと撫でていたのは覚えているが、ここ数日の疲れと人の温もりを感じて安心したのか僕はそのまま寝入ってしまった。

 僕の体に巣食っている病気が比較的穏やかにしていてくれたのはこのあたりまでだった。その晩僕は胸苦しさに目を覚ました。しばらく横になったまま耐えていたが、こみ上げて来る吐き気に耐え切れずに洗面台に向かった。

 そして白い洗面台に向かって胸に溜まっていたものを吐き出した。洗面台に赤黒いどろりとした液体が大きく広がった。すぐに水道の栓を捻って洗面台にこびりつくように飛び散った血を洗い流そうとしたが、続けて二度三度と吐き気に襲われて洗面台に向かって血を吐き続けた。

 僕の呻き声で目を覚ました秋絵は口や鼻を赤く染めて跪くように洗面台に屈み込んでいる僕を見て声を上げる事も忘れたように立ちすくんでいた。

「大丈夫だから。大したことじゃない。」

口の回りについた血を洗うと秋絵の方に向き直った。

「秋本さんを、秋本さんを呼ぶ。」

秋絵は我に帰ったようにインターコムを取り上げようとした。

「明日の朝でいい。もう夜も遅い。」

受話器をつかんだまま秋絵は僕の顔を見詰めていた。

「秋本さんは医者よ。夜も昼も関係ない。具合が悪いのなら、」

「どのみち同じことだ。明日の朝でいい。」

 僕の言葉を聞いて秋絵はしばらく受話器をつかんだまま動かなかったが、やがて心を決めたように両手で握り締めていた受話器をそっと下ろした。そして僕の方にゆっくりと歩いてくると両手を僕の首に回してまるで締め上げるように僕を抱き締めた。

「こうしてただあなたを見守っているだけなんて自分の体をずたずたに引き裂かれるよりももっと辛い。でもあなたが考えていることも何となく分るような気がする。だからもう何も言わない。あなたの好きなようにしていいわ。」

秋絵は首に回していた両手を下ろすと僕の脇を支えてベッドに戻した。

「大丈夫、苦しくはないの。」

横になった僕の手を取って秋絵が尋ねた。

「吐くだけ吐いたらさっぱりした。もう大丈夫だ。」

 秋絵に聞かれて「大丈夫。」と答えた自分がおかしくなって笑い出してしまった。ここまで病に侵されて一体何が大丈夫なのか自分にもよく分らなかった。

「何がおかしいの。」

秋絵に聞かれて自分が笑った理由を説明した。

「確かにおかしいのかも知れないけれど今はとても笑う気にはなれない。」

 秋絵は僕の手を一層強く握り締めたが、顔を背けたまま僕を見ようとはしなかった。溜まったものを吐けるだけ吐いてしまうと胸の重苦しさは楽にはなったが、今度は腹部に疼痛を感じ始めた。最初は軽かったが、徐々に痛みは強くなってしかも波のように規則正しく寄せてきた。

『秋絵を抱くのに残ったエネルギーのほとんどを使い尽くしてしまったのかな。』

 突然牙をむき出して押し寄せて来た病気に耐えながらそんなことを考えたが、そのことには特に恐怖も後悔も感じなかった。それよりも僕は僕で最後の最後になってやっと秋絵に少しばかり夫らしいことをしてやれたというささやかな満足感を感じていた。