その声に秋本はノブから手を離して秋絵の方を振り向いた。
「ちょっと待ってよ。二人で勝手に納得して。私はどうなるの。私はあなた達の所有物じゃない。くれだのやるだの私は一体何なのよ。二人で勝手に納得しないでよ。私は誰のものでもない。自分の生き方は自分で決めるわ。誰の指図も受けない。」
秋絵は顔を紅潮させて大きく肩で息をしていた。
「私は森村秋絵、森村美年の妻よ。これまでも、今も、そしてこれからも。」
「分かった。」
秋本は低い声で一言秋絵に答えるとドアを開けて部屋を出て行った。
「秋絵、僕が秋本に頼んだんだ。君は君の判断で決めればいい。今秋本が言ったことは僕と秋本の間で話し合ったことだ。もうどうあがいても僕には君の側にいてやれる時間がない。だから君と秋本がお互いに好き合っているのならこれも悪い選択じゃないと思って秋本に話したんだ。君がどう考えるかは君が言うとおり君自身の問題だ。別に強制する訳じゃない。自由にすればいい。」
秋絵はまだ肩で息をしていた。そんな秋絵の動揺している様子がありありと見て取れた。死を間近にした夫に夫の親友との関係を知られたばかりか自分の知らないところで夫と親友の間で自分の今後の身の振り方まで話し合われていたら、そして何の予備知識も無くいきなり目の前でその二人が自分をこれからどうするなどと話を始めたら動揺しない方がおかしいのかも知れない。
僕は秋絵が落ち着くのを黙って待っていた。そして秋絵の肩の動きが小さくなった頃を見計らって言葉をかけた。
「秋絵、君に何も相談しないで悪かった。でも君も秋本が好きならこれからの一つの可能性として真面目に考えてもいいことだと思う。もち論僕はその結果を見ることは出来ないだろうけれど君と秋本が新しい生活を始めるかも知れないということを知っていれば少しは慰めになるかも知れない。」
秋絵は涙を流していた。そしてその涙を拭おうともしないで僕を振り返った。
「私はもうあなたの側にいてはいけないの。確かに私はあなたを裏切った。それも本当にあなたが辛い思いをしている時に何もしてあげられなかったばかりか秋本さんの腕の中で自分勝手に快楽を貪っていた。そのことはどんなに言い訳をしても許されることじゃないのは分かっている。
でも私はあなたの妻。いえ、妻の資格なんかないと言うのなら家政婦でも奴隷でも何でもいい。あなたの側にいたい。他のことなんかどうでもいい。今はあなたの側にいたいの。」
秋絵の声は低く小さかった。それでも秋絵の一途な思いは心に染み込むように伝わって来た。今秋絵の言っていることは彼女なりの偽りのない真実のように思えた。何が秋絵を変えたのか僕にはよく分からなかった。今まではただ僕を自分の前に跪かせることだけに力を注いできた女がその関係が消滅しようとするその間際になって突然方向転換を始めたらしいことにやや戸惑いを覚えた。
「僕は秋絵の溌剌とした才能と他人とは違う新鮮な感覚が好きだったんだと思うよ、もうずい分昔のことだからはっきりとは思い出せないが。今秋絵を女として愛していたのかと言われるとあまり自信がないような気がする。
君の才能と感覚に惚れ込んでそれを君が好きと勘違いしていたのかも知れない。君のことを嫌いなわけじゃなかった。ただそれ以上に君の才能に入れ込んでしまってそれを好きだと勘違いしていた。それが僕達の不幸の原因だったように思う。済まなかった。」
「責任があるのはあなただけじゃない。私だってあなたの聡明さに魅かれていた。そして同時にあなたのその聡明さに反発を感じていた。何時かきっと私の方を振り向かせてやる。私を認めさせてやるって。そんなことばかり考えてあなたと心を繋ぐことを考えなかった。
もう少し私の心が広かったら今あなたにこんな思いをさせなかったかも知れない。今だけでなくこれまでもずっと。だからせめて今だけはあなたの側に置いて。何かあなたの役に立てることはないの。教えて。」
「可能性のある者はその可能性に賭けて生きればいい。もしも僕のために君に何か出来ることがあるとすれば君が君自身の可能性に賭けて生きることだと思う。」
「あなたの側にいてはいけないの。私は邪魔なの。あなたには何もしてあげられないの。唯何処かに行ってしまえばいいの。」
「僕が君に可能性に賭けて生きろと言うのも君が僕の側にいてせめて最後の心の繋がりを持ちたいというのも人の心情としては同じ類いのものだと思う。つまりは自分のためなんだ。自分が気持ちの安らぎを得たいためだろう。」
秋絵の顔が変わった。以前の挑みかかるような表情が秋絵の顔に戻った。秋絵のその顔を見て僕は身構えて次にくる秋絵の言葉を待った。
「あなたはそうして最後の最後まで残酷なことを言い続けるつもりなの。あなたは今一体何が必要なの。何を求めているの。それにあなたは何時も何かある度に『牙を剥いて戦え。真っ直ぐに前を見て進め。それが駄目な時には死に物狂いで逃げ出せ。逃げて逃げて逃げまくれ。』そう言ってた。何故今度だけは逃げようとも戦おうともしないで運命の前に自分を投げ出すの。どうしてなの。」
「戦うことも逃げることも出来ないからだよ。どっちも無駄だから。今僕に必要なのは同情でも激励でもないんだ。一緒に死を恐れておののいてそして一緒に泣いてくれる人。同じ立場に立って自分の死に対する恐怖を分担して軽減してくれる人だと思う。
もしも生を得ることが勝利ならどう戦ってみても僕には絶対に勝ちはない。僕にとって死は絶対無二のそして逃れることの出来ない差し迫った現実だろ。そりゃ誰もが同じ立場かも知れないが、目の前に突き付けられているのとは訳が違う。そんな状況で必要なのは無力な割に大袈裟な治療や仰々しい激励や同情じゃなくて雨の中、軒先で体を寄せ合って濡れた体を暖め合うようなそんな温もりなんだ。
秋絵、君もそうかも知れないけど僕なんかこれまでずっと鎧を脱げば傷だらけの体で流れる血を鎧で隠して生きて来たようなものなんだ。ここまで来てもう痛い目に遭ったり辛い思いをするのはたくさんだよ。」
「私はあなたに何がしてあげられるの。何もしてあげられることはないの。私が秋本さんと一緒になればあなたは安心なの。」
「別に君くらいの能力があれば一人で充分に生きて行けると思うし、そんなことは心配してはいない。ただ女として君が幸せだったのかそれを考えると済まなかったと思う。もしも秋本と一緒になって君が人として女としての幸せを得られるのなら、そして君もそれを望むならと思っただけだ。
秋絵、もしも君と僕が同性だったら良いライバルで良い友達になれたのかも知れない。僕は君のことを間違って見ていた。今更謝って済むことじゃないかのは分かっているけれどもう一度謝っておきたい。済まなかった。」
それ以上言うこともなかった。僕は秋絵から目を離して青黒い静脈の浮き出した自分の腕を見ていた。
「私もあなたと同じようなことを考えてはいた。でも私はあなたを男として愛していた。それなのに私はそんな自分の気持ちに素直になれなかっただけ。何度も何度も自分に素直になろうとそう思った。けれどあなたの前に立つとどうしても素直なかわいい女にはなれなかった。
私はあなたが何と言ってもあなたの側にいる。そして今まで出来なかったことをしてみたい。あなたと女として接してみたい。女としてあなたを愛してみたい。あなたに愛されてみたい。今更そんなこと自分のエゴだと言われても私は女としてあなたと一緒に時を過ごしてみたい。」
こんな時になってまさか秋絵にそんなことを言われるとは思いもしなかったが、涙を浮かべて切々と訴える秋絵を見ていると何だか気の毒になった。残された時間を一体どうして誰のために使えばいいのか今の今まで決めていたつもりだったのにその決心がゆっくりと動き出して形を変えようとしているような気がした。
「あなたに残された時間を全部私にくれなんてそんなことは言わない。一か月、いえ半月でも一週間でもいい。私にあなたの時間を分けて。私にだって分かってるわ。そんなこと言えた立場じゃないってことくらい。でもお願いだから少しだけ私の我が儘のためにあなたの時間を分けて。」