イメージ 1

 夕方、それほど遅くない時間に秋絵は戻って来た。本当に泊まるつもりらしく手にはバッグを持っていた。

「家に寄って着替えを取って来たんで遅くなったわ。一緒に食事をしようと思ったのに。もう済ませたんでしょう。病院の食事は早いから。」

 秋絵は何時になく浮き浮きした様子だった。それがわざとそうしているのかそれとも何か他に理由があるのかその時の僕には分からなかった。

「食事はまだだ。秋本が気を使って君が来てから連絡してくれればすぐに用意するってそう言ってた。だから食事を用意するように連絡してくれ。」

 秋絵はインターコムを取って食事を頼んだ。そして鼻歌でも歌い出しそうな様子でテーブルの支度を始めた。

 連絡をしてから五分もしないうちに食事が運ばれて来た。いくら秋本が気を使ってくれたと言っても正式のディナーと言うわけにはいかなかったが、それでも病院の食事にしては上出来の夕食だった。もっともそれは目で見た時の話で僕の体はその食事をもうあまり受けつけなくなって来ていた。少しでも多くの物を摂ろうとは思うが、なかなか喉を通らないのが少しばかり恨めしかった。食事が終わってしばらくしてから秋本から電話があった。

「せっかくの夫婦の時間を邪魔して申し訳ないが、ちょっと顔を出してもいいか。」

 秋本の声は少し沈んでいるように聞こえた。昼間のことが尾を引いているのかも知れないと思ったが、込入ったことには触れずに何時でも歓迎する旨を伝えて電話を切った。実際に秋本が部屋に顔を出したのはそれから小一時間もしてからだった。

「カルテの整理に時間をとられて。」

 秋本は言い訳をしながら部屋に入って来た。秋絵は慣れた手つきで秋本の飲み物を用意していた。僕はベッドで半身を起こしてそんな二人を見ていた。

『あと何か月かするとこの二人はこんな風に暮らしていくのか。結構似合っているかも知れない。でももうその似合った夫婦が出来上がる時には多分俺はこの世にいないんだろうな。』

 秋絵と秋本の姿は微笑ましかったが、自分の行く末を考えると複雑な気持ちにならざるを得なかった。そんな時に自分の頭に浮かんだのはイギリスで一緒に暮らしていたテリーのことだった。ロンドンでテリーと別れてまだたったの二日しか経っていないのにもう随分長い間離れてしまったように感じた。

 複雑な表情の秋本に向かって笑顔で話しかける秋絵の顔にテリーの笑顔が重なって見えた。そして近代的な装飾の施された病室がテリーと暮らしていた小さな薄暗いフラットに変わった。秋絵は秋本に何かを話しかけていたが、秋絵の声は聞こえなかった。テリーのことが想像の世界でどんどん大きく膨らんでいった。

『どうしてこんなに今になってテリーのことを考えるんだろう。死ぬということの恐怖から逃れるためなのか。それとも秋絵を失った寂しさなのか。自分自身の弱さなのか。それともテリーが好きなのか。』

自分でもはっきり分からないままテリーのことを考え続ける僕の耳に秋本の声が割り込んで来た。

「おい、どうしたんだ。何をぼんやりしているんだ。」

声の聞こえる方を向き直ると秋本と秋絵が心配そうに僕を見つめていた。

「気分でも悪いのか。」

秋本がもう一度僕に向かって聞いた。

「いや、大丈夫。ちょっと考えごとをしてたから。」

「それならいいが。ところで昼間のことだけどお前が言ってたこと。」

 まさか秋本がここで秋絵とのことを持ち出すとは思ってもいなかったので秋本が言おうとしているのはてっきり病気の事と思っていた。

「秋絵さんとのことをここではっきり言っておきたい。森村、本当に秋絵さんを俺がもらっても構わないのか。」

 突然のことに僕自身も驚いたが、秋本の言葉で凍りついたように動かなくなってしまったのは当の秋絵の方だった。

「昼間、お前に言われて考えた。俺はお前と秋絵さんがもう一度以前のように溌剌とした優しい夫婦に戻って欲しいと思っていた。別にそれ以外に他意はなかった。でも、昼間お前に秋絵さんとのことを言われて考えが変わった。

 このまま二人がいい夫婦に戻ってくれることを今更幾ら希望しても、森村、お前の時間はもうあと幾らも残っていない。これは医者としての言葉じゃない。一人の人間として言っているんだ。勿論、おれとお前のどっちの時間が長く残っているのか、そんなことは誰にも分からない。もしかしたらお前の方が長いのかも知れない。

 でも今の時点で普通に考えればそういうことになると思う。そんな状況でしかもお前にまではっきりと言われた後で『いい夫婦に戻ってくれ。』なんてきれい事を言い続けるのはお前が自分の時間を使い尽くすのをじっと待っているハイエナか禿鷹みたいなものじゃないか。

 俺は絶対にそんなつもりはない。本当に二人にはいい夫婦に戻って欲しいと思っている。今更そんなこと言えた義理じゃないかも知れないけど。けれどそれとは別に秋絵さんを男として大事に思う気持ちも正直なところ誰にも負けないくらい強いと思う。

 だから今言っておきたいんだ。何時かは分からない。けれど、もしも色々な状況が許せば秋絵さんと一緒に暮していきたいと思っている。森村、それを認めてくれるか。」

 秋絵はテーブルに両手をついたまま固まってしまったように身動き一つしなかったが、体は小刻みに震えていた。僕にしても秋本がこんな時にこんなところでこの話を持ち出すとは思ってもいなかったが、いずれこのことについてはそれなりの結論を出しておきたかったし秋本が言い出してくれたことはむしろ好都合だった。

「昼間話したとおり二人がそれでいいのなら僕は何の異議もない。もしも生きているうちにそれが見られるのなら、この世での未練の種が一つ減ることになって大歓迎だ。」

 僕は秋本に自分の思ったとおりを答えた。ただ秋絵の様子を見ているとこのまま無事に治まるとは思えなかったが、それなりに秋絵を説得してこの場を治める方法は心得ているつもりだったし、その自信もあった。そして恐らくこれが妥協することなくお互いのプライドを賭けてずっと戦い続けて来た僕と秋絵の最後の戦いになるだろうと思った。

 秋絵はテーブルに両手をついたまま動かずにじっとしていた。秋本は椅子から立ち上がってドアの方に歩き始めた。秋本がドアのノブに手をかけた時秋絵が絞り出すような声で秋本を呼び止めた。

「ちょっと待ってよ。」

その声に秋本はノブから手を離して秋絵の方を振り向いた。