僕がゲイさんの思い出に浸っていたらクレヨンに破られてしまった。こいつも何時も良いところで僕の平和な思いを破る奴だ。
「明日は伊藤さんのところに行くの。」
クレヨンは何時もとは違う真剣な顔つきで僕に聞いて来た。そんなこと聞くまでもない当然のことだろう。
「どうして。行かないと言う選択はあり得ないわ。そうでしょう。」
「分かったわ。行くのは止めない。でも夜はここに帰って来て。約束して。彼女と一緒でも良いから。」
おまえ、そんなことをどうしてお前に約束しないといけないんだ。それは僕の自由な選択にかかるべき事柄だろう。
「どうしてそんなことをあなたと約束しなくてはいけないの。それは私と彼女の問題でしょう。」
「そう、あなた達二人の問題よ。でも私にも重大な問題なの。何故か教えてあげるわ。私があなたを好きになってしまったから。」
こいつはこんなことをマジで言っているんだろうか。何だか次から次からさすがに疲れて来た。半ば呆れてクレヨンを見ているとこいつは何を血迷ったかインターホンを取り上げて父親の金融翁に電話した。
「ねえ、お父さん、ちょっといい。あのね、私が佐山さんが好きで一緒に暮らしたいと言ったらどうする。」
こいつはどうしてそばで聞いているこっちの方が卒倒しそうなことを平気で言い出すんだろう。
「ええ、そう。私が佐山さんを好きで、そうよ、彼女も勿論同意だったら、そう、ここで一緒に生活しても良いわね。うん、そうでしょう。分かったわ、それを彼女に伝えてあげて。」
クレヨンは僕に向かって受話器を突き出した。
「ねえ、聞いて。父よ。」
そんなこと言われなくても分かっている。それにしても何て親子だ。こんなバカみたいな話を話す方も話す方だが、真に受けている方もいる方だ。
「早く受話器を取って。」
クレヨンに促されて僕は受話器を取った。
「どうも夜分にお騒がせして申し訳ありません。」
一応僕の方から一言謝ったが金融王はそんなことは全く気にかける様子もなかった。
「娘がいろいろ無理難題を申し上げて身も細る思いですが、その上一緒に生活して欲しいなどととんでもないことを言い出しましてお詫びの申し上げ様もありません。しかし皆様のお陰を持ちまして娘もやっと落ち着いてまいりましたので、ここは何卒一つよろしくお願いいたします。」
全く金融界の大御所も自分の娘のことになるとからっきし軟弱になってしまうようだ。
「ほら、お父さんも良いと言っているでしょう。後はあなた次第なのよ。分かったでしょう。」
お父さんは良いと言っているのじゃなくてもう少しお前のそのバカさ加減が落ち着くまでもう少し面倒を見てやってくれと言っているだけじゃないか。人の話は自分や相手が置かれた状況を考えながら聞くものだ。
ところがクレヨンはそんな状況など一顧だにもせず今度は携帯を持ち出すとどうも女土方に電話をしている様子だった。このバカはせっかく落ち着いて来た女土方の気持ちや僕たちの関係を何と考えているんだ。止めさせようと思ったらもう電話がつながってしまっていた。
「あ、伊藤さん、私です。そう、澤本です。ええ、それがね、明日のことでちょっとご相談があって、はい。」
もう僕は女土方とのことは諦めてここで金融翁の財産を食いつぶして生きて行こうかとも思ってしまった。
「そう、それでね、明日ここに来て欲しいの。うん、佐山さんも了解だから。うん、そう、ありがとう。」
誰が了解なんだ、この阿呆が。
「ねえ、伊藤さんが替わって欲しいって。」
クレヨンをひっぱたいてやろうと思ったらクレヨンの方が先に電話を差し出したので機先を制されて機会を失ってしまった。電話を受け取って「はい、私です」と返事をすると「元気」という女土方の声が聞こえた。
「大分苦労しているみたいね。いいわよ、夜はそっちに行ってあげるから。でも昼間はここに来て。あなたに話したいこともあるし、いいでしょう。じゃあ、彼女に替わって。私が話すから。」
僕は「うん」と言ってクレヨンに電話を返した。クレヨンは女土方が言うことを素直に聞いているようでずい分機嫌よく「はいはい」言って電話を切った。
「伊藤さん、ここに来てくれるって。やっぱりあの人は話が良く分かるわ。」
「じゃあ、私じゃなくてあの人を好きになったらどうなの。」
「いい人だけど前にも話したでしょう、あの人じゃ、女が強すぎて抵抗があるの。あなたならちょうど良いわ。それにね、一見冷たい素振りだけどあなたはとても温かくて優しいわ。多分私が知っている誰よりも優しいと思うわ。だからあなたが好きなの。」