太平洋戦争の日本軍の攻勢終末点はニューブリテン島のラバウルと言われているが、実際はそれよりもずっと手前、トラック諸島までも行かず、極端に言えばマリアナ辺りが限界ではなかったのかと思う。大体、人の住んでいない地域、いわゆる赤道直下の熱帯雨林の諸島に大量の人間を送り込んでも食料さえろくに送れない軍隊など始から戦う資格もない軍隊と言われても仕方がない。
そんな軍隊があれだけ戦闘を継続できたのは、やはり日本人の集団に順応しようという生真面目さが際立っていたからで、あの悲惨な戦争で数少ない救いだろうと思う。当時の日本軍は人の頭数だけは列強と負けなかったが、火力、つまり一定時間に一定の地域に投射出来る砲弾の量などは同じ師団でも米軍の1/3程度だったようだ。
しかも一度に大量の兵器を作れないので年式の違う兵器が多数存在するから補給も煩雑で武器体系も複雑になる。小銃も口径の異なる銃が2種類あるから、極端な話、隣の仲間から弾薬をもらえないなんて笑えない話が実際に起こり得る場合がある。
火力だけでなく機動力、装甲も列強のそれから大きく劣る。移動はほとんど徒歩が原則、装甲車両など滅多にお目にかかれないばかりでなくその装甲自体もせいぜい機関銃弾に耐える程度だから薄く貧弱だ。日本の戦車は米国の戦車にはほとんど歯が立たなかった。それは戦車砲の口径が小さく対歩兵用の榴弾しか発射出来ないので戦車にはほとんど効果がない。対戦車戦闘を想定していないので装甲も薄く、米国の戦車の戦車砲で易々と貫通されてしまう。
ノモンハンではソ連の戦車にこてんぱんに負けた。マレー半島でも英国の対戦車砲にやられた。ガダルカナル、グアム、サイパン、フィリピンでも完敗した。硫黄島では戦車でまともに戦闘しては勝てないので戦車を土に埋めて火力拠点として戦った。そんな戦車も米国の何十分の一程度しか作ることが出来なかった。
それでも97式戦車というのは出現当時としてはなかなか優秀な戦車だったらしい。車体も使い易く様々な自走砲等に利用されている。惜しむらくは装甲が薄く備砲の威力に乏しかった。改装した時に対戦車戦闘を考慮して長砲身戦車砲を装備したが、口径が47ミリと小さく米国の主力戦車M4の装甲を正面から貫通出来なかった。
その頃57ミリ戦車砲を試作していたのだからせめてこれの開発を急いで戦争初期から対戦車戦闘を考慮した戦車を作っていればもう少し活躍できたのかも知れない。少なくともブリキの棺桶などと言われることはなかったかも知れない。
米国のM4はソ連やドイツの戦車に性能で劣り、決して傑出した出来の良い戦車ではなかったが、信頼性と使い易さそして何と言っても数で相手を圧倒した。日本の戦車も米国の戦車の10倍もあれば4、5台やられているうちに接近して射撃すれば何とか勝てたのかも知れない。もっとも何とか相手の戦車の装甲を撃ち抜ける戦車を作ったが、その数が60両、攻撃力、防御力とも何とか米国に並ぶものを作ったが、その数がたったの2両とか6両とか言うのではM4戦車を何万両も作り、全世界にばら撒いていた米国と戦争をしようなどとは笑止千万、全く話にならない。
当時は政府による財政投融資や経済支援などという概念はなかったのかも知れないが、あの頃小粒でもぴりりと辛い軍事力を蓄えながらせめて中立を貫いて経済の発達に重点をおいた政策を推進して国力を蓄えるなんてことを考えていればあんなに悲惨な戦争を経験することもなかったかも知れないが、その分、後日に米国の世界戦略に巻き込まれて朝鮮戦争やベトナム戦争を日本が中心になって戦うことになったかも知れない。また台湾問題にももっと深く関与せざるを得ない立場になっていたかも知れない。要するにアジアの自由主義国の尖兵が日本で米国はその後ろに立って眺めているという構図が出来上がっていたかも知れない。
まあ、歴史に「もしも」はないというが、付帯条件をつけて歴史を様々な角度から考え直し、思考力を養うという方法もあるらしい。ただ何の条件も付さずに言えることは昭和初期の日本には世界どころか米国一国を相手に戦争をするだけの国力などもありもしなかった国には間違いがない。そういう貧乏な弱小国家を奮い立たせて大戦争に突入させるためには日本は不滅の神国という精神思想を国民に吹き込まないとどうにもならなかったのかも知れない。そんなことをしているうちに冷静であるべき為政者の一部もその精神至上主義に酔いしれて戦争へとなだれ込んで行ってしまい、大きな苦痛を国民や周辺諸国に与えてしまった。
美名にはいろいろと思惑がある場合が多い。単に感情的精神的な美しさに心を奪われて再び日本の将来に禍根を及ぼさないよう一人一人がしっかりと現実を見ていく必要があるのだと思う。それがあの戦争で命を落とした人たちに対する今の世を生きる者たちの義務に思えてならない。