金剛型4隻は最も旧式で砲力、防御力も弱かったが、速力が30ノットを超える高速戦艦に改装され、太平洋戦争開戦時からその終焉まで太平洋に、インド洋にと、縦横の大活躍をした異色の戦艦だ。この4隻がどうしてこんなに活躍出来たのかというと古い艦なので惜しげがなくどんな作戦にも投入することが出来たこと、位置づけが準主力艦で艦隊決戦の戦列艦とはされていなかったことなどがあるが、何よりも30ノット(約時速56キロ)という水上艦としては高速が発揮可能だったことが最大の理由だった。
高速発揮が可能な大型艦ということで空母機動部隊の直衛艦として太平洋を西へ東へ走り回って八面六臂の大活躍をした。それに比較して伊勢、日向、山城、扶桑は最高速が25ノット前後の低速艦(中速艦とも言う)で機動部隊に随伴して活動することが出来なかった。実際、空母は航空機を発艦させるためにいずれの艦も30ノット以上の高速力が与えられている。だからそれに随伴する艦艇も高速で航海が出来ないと艦隊から置いていかれてしまう。時速にすればたった9キロの差だが、その9キロが太平洋戦争時の艦隊行動には極めて大きな差となってしまっていた。
特に山城、扶桑は艦首から艦尾まで6基の36センチ連装砲塔を隙間なく均等に並べたために艦全体が火薬庫のようになってしまった上に艦内容積も不足しており、防御に大きな問題があった。また主砲発射時には全艦上が強烈な爆風に覆われるために艦の艤装も制限されるという極めて使い勝手の悪い艦だった。伊勢、日向も扶桑からは改良されたとは言え、概ね似たようなものだった。そのためこの4隻に長門、陸奥を加えた低速戦艦群は開戦後もほとんど瀬戸内海にあって前線には出撃しなかった。特に山城、扶桑はその劣悪な性能から第一線での戦闘活動は不可能とされて練習艦として第一線から外されていた。
こういった旧式戦艦を太平洋戦争中期、特にガダルカナル島砲撃などに投入すればよかったのだが、それよりも海軍がその個艦性能向上のために昭和9年頃から順次実施した第2次大改装で、これらの艦の中央にある3・4番砲塔と出来れば副砲全部を撤去して艦内容積と搭載量を増やし、機関を増設して高速力が発揮可能な艦とし、主砲塔を撤去して空いた上甲板のスペースに高角砲などの対空火器を積めるだけ積んで空母の護衛として活用すればそれなりに活躍できたのではないかと思う。
最も昭和初期はまだまだ艦隊決戦思想全盛であり、主砲を撤去して戦艦の砲力を減少させるなどもっての他のことだったろうし、予算や工事量などの問題もあっただろう。戦術、戦略などの思想の点はどうしようもないが、予算や工事量などは当時の軍事優先の社会環境ではどうにでもなったことだろうから、何とか実現させていれば高速力と強力な砲力そして対空火力を備えたバランスの取れた性能の戦艦10隻は実際の太平洋戦争では想像を超えた強力な戦力だっただろう。それにさらに高速化された大和、武蔵が加われば戦争の前期にはかなり活躍出来たかも知れない。
井上成美が「米国がこれこれの軍備をするから日本はその何割という漫然とした計画をしていても戦争には勝てない。」と言い、太平洋に点在する島を航空基地として活用し、航空戦力を充実するという計画(実際には他にも斬新な計画を描いていた)を提出したと言うが、そうした戦略的な計画にしても個々の装備にしてももっと斬新で柔軟な発想を以って工夫していかないと貧乏国ではなかなか効果的な軍備など出来るものではない。
ミッドウエイで主力空母4隻を撃沈されてから海軍は何でも航空に改装したがり、航空戦艦、航空巡洋艦など珍奇な艦を立て続けに送り出したが、結局は「二兎を追うものは一兎をも得ず」で米国の圧倒的な航空優勢の前には蟷螂の斧ほどの戦力も発揮出来なかった。貧乏海軍の個艦優秀はただ攻撃力だけが優先され、結局はトータルバランスの良くない兵器になり下がってしまう例が少なくなかった。
ゼロ戦や一式陸攻などの航空機もそうだが、攻撃力と防御力、そして速度、航続距離などそれぞれの性能がバランスした兵器を開発してその上に特色をつけたものを開発して欲しかった。そんな悠長なことをしていたら戦争には勝てないと言うのなら、それはやはり日本の国力があの戦争をするに値しなかったと言うことで潔く開戦を断念すべきだった。そうすれば失わなくて良い命が救われたのだから。