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「誉」というのは馬の名前ではなく太平洋戦争後期に陸海軍、特に海軍の期待を一身に集めて登場した航空機用空冷二重星型18気筒エンジンだ。このエンジンは現在の富士重工の前身である中島航空機によって開発された2千馬力級戦闘機用エンジンでゼロ戦に搭載していた「栄」14気筒エンジンを4気筒増やして出力を強化したものだった。

排気量は36リッターで米国の2千馬力級エンジンに較べるとはるかに小型で軽量、しかも直径が小さく空気抵抗が少ないとカタログ上ではいいこと尽くめの夢のようなエンジンだった。ところが実際には軽量小型化したために冷却の問題、クランク軸受けの焼損の問題、高圧縮圧縮比によるノッキング防止のための高オクタン価燃料の入手の問題など種々の問題が山積していた。

特にクランク軸受けの焼損と高オクタン価燃料の入手困難はこのエンジンにとって致命的で戦争末期の粗製濫造と相俟ってその性能はカタログ値から大きく低下し、特にこのエンジンにほれ込んで、艦上戦闘機烈風、単座局地戦闘機紫電、紫電改、艦上偵察機彩雲、双発局地戦闘機天雷、艦上攻撃機流星改、陸上爆撃機銀河、連山などほとんどの新鋭機にこの誉の搭載を計画した海軍には影響が非常に大きかった。

これらの新鋭機の中でも何とか実戦に参加できたのは紫電、紫電改、彩雲とほとんど終戦直前に参加した流星改くらいだった。それも性能は計画値を大きく割り込んでいた。戦後米軍のテストでは電装品を米国のものに換え、良質のオイルとガソリンを使用したためにどれも戦争当時の性能の15~20%も良い結果を残したと言う。特に彩雲という偵察機は戦時中の最高速が約600キロ強だったのに米国でのテストでは約700キロにも達したと言う。

戦争当時の日本の技術は工作技術、電装品、冶金、オイル合成、オイルシール技術、防振対策など周辺技術がほとんど欧米のそれに及ばなかったために技術者の発想は高度であってもそれを支える技術が技術者の発想のレベルまで達していなかったようだ。

そういう時にどこかで妥協して少しでも安定した性能の製品を作り出すという発想がなかったものだろうか。米国などは日本よりもはるかに高度な技術を持っていながら航空機用エンジンなどは大型大排気量の余裕のあるものを作っていたので後の改良、発展にも都合が良かったようだ。

そんな状況で以下に高度なものを発想して設計したとしても実際に製品として安定した性能を発揮するものが出来なければ何もならない。身の程に合った設計製造ということをどうして考えなかったのか。その辺りが不思議でならない。日本人はそうした妥協がどうも上手くない。一心不乱に頂点を目指そうとして結果として後の発展性のないものを作り上げてしまうのは今もあまり変わっていないのかも知れない。

ところで当時の陸軍と海軍は何につけ反目し合っていたようだ。機銃も同じ口径のものをそれぞれ別に開発して口径が同じなのに弾丸の互換性がないなどという信じられないことをしていたらしい。当時は規格の統一などという考え方がなく、Aというエンジンに使用している部品が同じ会社のBというエンジンには使えないなどということは日常茶飯事だったという。

概ね海軍の方が考え方が合理的と思われているが、航空機に関してはゼロ戦に執着して後継機の開発に遅れを取った海軍よりも陸軍の方がバラエティに富んだ性能の良いものを開発している。戦争末期の陸軍の主力戦闘機は「疾風」で約3,500機を生産したが、これに匹敵する海軍の戦闘機は「紫電改」でも生産機数は約400機と極めて少ない。しかし航空戦のほとんどを海軍が主戦力となって戦ったために次から次と新たな航空戦力を投入しなければならなかったことから悠長に新型機を開発して戦線に投入するなどという余裕がなかったのかも知れない。

話が逸れたが、もう少し合理的で柔軟な発想が出来ればまた戦争の結果は変わらなかっただろうが、戦闘の様相は異なっていたのかもしれない。しかし、合理的で柔軟な発想が出来ていたのなら始めから米国、英国相手の戦争など考えなかったかも知れない。