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愛の行方にもいろいろある。皆に祝福されて最後まで幸せが続く愛、祝福はされなくともひっそりと幸せが続く愛、祝福はされても途中で挫折してしまう愛、祝福もされず挫折して悲惨な結果に終わる愛、そんな愛の行方は様々だ。

人を愛するという行動は感情のなせる技なので時として大いに気まぐれな一面を表すことがある。愛の始まりにしてもその時の当事者や周囲の状況を問わない場合が多い。だから始めから幸福な祝福される愛もあれば世を忍ぶ不幸な愛もある。それでも普通の愛だろうが、不倫の愛だろうが、近親愛だろうが、同性愛だろうが、人を慈しむ心には変わりがない。

『世を忍んでも恋は恋、許されなくても愛は愛』

そんな言葉が流行ったことがあったようにも思うが、とにかく愛は突然で気ままだ。だから人を愛し始めることは特に難しくもないし努力も要らない。気がついた時には当事者や周囲の状況に関係なく愛は始まっている。本当に努力が必要なのはその気まぐれな愛を続けて育んでいくことだろうと思う。人の気持ちは移ろい易い。女心と秋の空というが、男も女も本当に些細なことで人の心は変わってしまう。どんなに激しく強い愛でも時の経過と共にその愛は形を変えていく。そんな気まぐれな感情を捉えてそれを続けていくのは至難の業だと思う。

愛を全う出来ればこんなに良いことはないのだろうが、時として愛は不幸な方向へと人を導き、破滅という形で終末を迎えることがある。相手を傷つけたり殺してしまう場合もあれば、犯罪に至らないまでも人の心に生涯消えない深い傷を残すこともある。

犯罪という結果で終焉を迎えることについてはこの際除外しても、精一杯人を愛そうとして不幸にもそうした結果に終わったのならば、それはそれで仕方のないことだと思うし、そうした経験を経て何かを得て、成長している場合も少なくない。それならばそれで愛は人に何かを与えたことになるのかも知れない。

また愛する者同士、感情の行き違いから愛が憎しみに変わってしまうこともある。それでも少なくともそうした結果を招いたことの責任が自分にもあるということを認識していればそれほど不幸な結果には至らないかも知れない。

愛の結末でもっとも卑劣な行為は、終焉に際して男女の間にあったことを第三者に公開することだろう。男にしても女にしても人を愛するという心境は一種高揚した異常な心理状態だろう。愛に精一杯その身を浸そうとして行動が過激になることもやむを得ない。大体セックスなど淫らにすればするほど楽しいものだと不道徳な僕はそう思う。あられもない姿を写真に収めさせたりすることもままあるようだ。

だからそんな時の行動を公開なんぞされた日にはいくら男だってうんざりしてしまうだろうから、それが女だったら恥じらいで世間に顔向けも出来なくなってしまうだろう。もっともその辺が狙い目なのかもしれないが、そんなことは言語道断な卑劣極まりない行為だ。

そういう輩は他人のことをとやかく言う前にまず自分のことを省みるべきだ。大体愛というものは相手がいてこそ成立するものなのだから、もしも相手がそんなにろくでもない人間だとしたらそんなものを好きになったご本人も十分にろくでもないし同様に責任もあることになる。大人同士の愛で自分には責任がないと公言することは責任を負担する勇気もない愚か者と言っていることと同じことだし、相手を愚かだと罵る行為は同じように自分も愚かだと貶めていることになる。

我が身を顧みてその愚を悔いるよりも、他人を憎む方が容易いし自分もその場は楽なのかも知れないが、
そんなことをしていたら人としての進歩も何もない。ただ自分の思惑とは反対に奈落の底に落ち込んでいくだけだ。

『世を忍んでも恋は恋、許されなくても愛は愛』、これは真実だと思うし、どんな状況でも人を愛するということは決して悪いことではない。だからこそ、その終わりに臨んでも自己を顧みる冷静さと相手を思いやる優しさを残しておくべきだろうし、それが大人の愛だろうと思う。

そのくらいのことが出来ないのであれば始めから大人として人を愛する資格も責任感もない低劣な人間と自ら世間に証明して見せているようなものだ。どんな形でも人を愛することは人の心をときめかせ惹きつけて止まない魅力がある。だからこそ終わりに際しても相手に思いやりを残せるくらいの優しい大人の証を示して終わりたいものだと思う。