豊臣方はそんな城を拠り所にどのように戦うかということで議論になった。堀を埋められてしまった裸城では冬の陣のように籠城は効かない。野戦に持ち込んでも兵力量が圧倒的に違い過ぎて勝負にならない。真田幸村が考えたことは敵将の家康と刺し違えることだった。死地に状況転回の千載一遇の機会を探るべく必死の戦いを挑むつもりだったのだろう。幸村は乾坤一擲の作戦を考えた。豊臣秀頼の出陣を得て味方の士気を高め、一気に家康の本陣を突いて家康を討ち取ることだった。
幸村は軍議でそれを進言するが、秀頼を戦に晒すことを嫌った淀君に反対されてその作戦は退けられた。徳川軍主力は天王寺口から大坂城に迫っている。幸村は茶臼山方面に軍をまとめて横合いから徳川本隊に突撃する。激烈な戦闘を経て幸村軍は徳川本陣に迫り、一時は本陣をかく乱して家康に自害を決心させたと言うが、多勢に無勢は如何ともし難く、結局押し返されて安居神社で一時の休息を取っているところを徳川軍に討ち取られる。
「千年の後にその名を歴史に残さんと思う者は我に続け。」
もしも豊臣秀頼がそう檄を飛ばして軍勢の先頭に立ったのなら戦闘の様相は変わったかも知れない。
「やれるところまでやった、もう自分としては悔いはない。しかし、・・・」
武人の本懐という点では思い残すことはなかっただろう。しかし、もしも秀頼公が陣頭に立ったら、陣頭に立って豊臣のために命をくれと全軍に令したら・・・。日本人は滅びの美学に殊更に敏感だ。自分たちが奉じて守るべき者が自分のそばまで降りて乞われれば最後の命を全力で燃やし尽くそうと思ったかもしれない。手傷を負って討ち取られる時に真田幸村が思いを馳せたのはそんな豊臣秀頼の姿だったのかも知れない。
そう言えば京都に旅行した時に思いがけず本能寺跡を見た。狭い裏路地に旧本能寺跡と彫られた小さな石碑が立っていた。日本の歴史上、無二の稀代の天才の終焉の地としては何ともひっそりと佇んでいることだろうと思った。本当なら京都のどんな史跡よりも大きく取り上げられてもいい場所だろうに。勇者達はその地でどんな思いを馳せて己の生を燃やし尽くしたのだろう。