僕はハンカチをバッグにしまいながら聞いてみた。
「全くお前さんは本当に女の匂いのしない女だよな。素っ気ないくらい女を感じさせない女だ。それなりに柔らかくて良い感じなのに普通の女が男に呼びかけてくる『私って良い女なのよ』って感じのオーラを全く感じないんだよな。」
「じゃあ私なんかをからかっていても面白くも何ともないの。女を感じさせもしないし、あの子みたいに若いわけでもないし。」
僕は何時の間にか長いすで言葉屋と寄り添って寝ているクレヨンを振り返った。
「若い女には若い女の、成熟した女には成熟した女の良さがある。むせ返るくらい女気を発散させている女もいればお前のように全く女を感じさせない女もいる。それはそれなりにどちらも味があっていいものだよ。」
マスターはちょっと伸び上がるようにして眠り込んでいる言葉屋とクレヨンを見た。
「すっかり寝入っているな。あれじゃあ少しくらいの物音どころか爆弾が落ちても起きそうもない。」
マスターは今度は真っ直ぐに僕を見た。やばい、こいつ、僕を襲う気か。僕は酔いと眠気でぼうっとした頭で考えた。こいつ、いっていることは誰でも良いってことか。そしてそんな場合に身を守るためにちょっと半身に引いて構えようと思ったが、何だか面倒で椅子に体を投げ出したままちょっと首を傾げてマスターを見上げていた。
「お前、どうしたんだ。そんなにもの欲しそうな目をして。俺を誘っているのか。元は男だなんて言っているけれどお前はやっぱり女なんだろう。上には部屋もベッドもシャワーもあるからご希望なら期待に答えてやっても良いけど、俺たちは子孫を残すわけでもないし、そうすればお互いの欲求の充足と楽しみのためということになる。そうなるとセックスはお互いに楽しく、そして淫らに、これが僕のモットーだから。もしも本当にその気なら言ってくれ。」
「いえ、違うわ。ただ飲み過ぎて眠いだけよ。あなたの人格や人柄がどうこうじゃなくて私には男性を受け入れることは出来ない。でも何時かその気になったらその時はそう言うわ。」
僕はそう答えたが、どうもその気になる時は未来永劫やって来そうもないように思えたし、そんなことがあっては困るんだ。マスターはそんな僕に笑顔で頷いてくれた。でも本当はちょっと誰かに甘えて休みたい気持ちがないでもなかった。
想像を絶する激烈な生活の変化の中で行く手を遮る者や立ちはだかる者はすべて蹴散らして生きて来たが、やはりいくら強くても弾が当たれば傷つくし血も流れるんだ。そんな時にはやはり精神的には女土方に拠っていたんだけど、今はその最も頼るべき盟友と断絶状態になっている。
女土方がいないからと言っても男に抱かれて男の腕の中で休むと言う選択肢はあり得ないのだが、誰かに拠りたいというそんな気持ちが僕の視線や態度に滲んでいたのかも知れない。ふと時計を見るともう午前四時に近かった。
「ずい分長々お邪魔してしまいました。お仕事の邪魔をしてしまってすみません。そろそろ失礼しようかと思います。」
「もう少しすれば電車が動き始めるからそれまで待ったらどうなんだ。お仲間もちょっとやそっとでは起きそうもないし。俺は構わないよ、こんなことは日常茶飯事だから。」
僕は椅子から立ち上がってソファに寝こけているクレヨンのところに行くと耳を引っ張って「起きなさい。痛い目を見たいの。」と言ってやった。クレヨンは僕の声で反射的にぱっと立ち上がったが、寝ぼけているのと酔っ払っているので正体なくクラゲのように前に崩れてのめりそうになったのを抱き止めてやった。この野郎は全く幸せな女だよ、本当に。
「そんなぐでんぐでんなのを連れて帰るのか。お前達が帰ってしまうとあいつと二人になってしまうからもう少し残ってくれよ。いいだろう。」
マスターにそう言われるとそれでも無げに帰るというのが悪いような気がしてクレヨンを席に戻して上着をかけてやるともう一度席に着いた。
「何か飲むか、ビールでいいのかな。」
マスターは何も返事もしないうちに僕の前にビールのグラスを置いた。もうかなり飲んでいるのでこれ以上飲んだらどうなるかあまり自信がなかったが、何となく惰性でグラスに手を伸ばして一口飲み込んだ。炭酸の刺激が口中に広がったが、もうビールの味はほとんどしなかった。