イメージ 1

織田信長が明智光秀の謀反を知った時にそう言ったと言われている。これが信長の最後の言葉になった。弱肉強食の戦国時代ではこの時1万3千の軍勢を擁する光秀は強者、天下をほぼ手中に収めたとはいえ、百にも満たない御側衆しか伴わない信長は明らかに弱者だった。

その隙を見事に突いた光秀の行動について「今更良いの悪いのいっても詮無いことだ」という戦国武将の思いが溢れた言葉だ。信長は神になろうとしたと言われるがこれはどうだろう。「是非に及ばず」という言葉には己の運命を甘受しようとする人間の思いが溢れているように思える。

戦国時代には親兄弟も自分の保身のために殺害することが当たり前の時代だった。信長も兄弟を殺害して自分の地位を肉親の血で購って来た。何時か同じ運命が自分の身に降りかかるだろうことはおそらく百も承知していたことだろう。

もしも信長が神であろうとしたのならば「是非に及ばず」などという言葉はその口からは出て来なかっただろう。肉親や側近の血で築き上げてきたその地位が背語句の掟に従ったものであり、自らもその掟に滅ぼされることを覚悟した者だからこそそんな言葉が口をついで出たのだろう。

信長は日本では唯一その社会の枠組みを変えてまで自己の理想とする社会体制の確立を目指した人物だろう。神ではない欠点はあったもののそういう意味では傑出した天才だったのかもしれない。

明智光秀も戦国の世にあって己の理想を実現して天下を治めようとした人物だったのだろうが、その方法は旧体制の復活強化であり、現行社会の枠組みの保持だった。それは豊臣秀吉も徳川家康も己が社会の頂点に立とうとはしたものの現行体制を全く革新するまでには至っていない。現行の枠組みの中で頂点を極めると言うのは皆同様だったのだろう。

あの時、自身の親衛隊として3千名ほどの精鋭部隊を帯同させることは当時の信長には容易いことだっただろう。もしもその程度でも精兵を伴っていれば慎重派の光秀は失敗を恐れて謀反を企てなかったかも知れない。そうして信長が生を得ていたのならどのような世の中を作り出したのか興味は尽きない。

喩え本能寺で信長が生き残って新しい枠組みを創ったとしても、その後、信長が死ねば稀代の天才の後を継ぐものは生まれなかっただろうから、世の中は元の日本の枠組みに戻って行ったことだろう。それはそれとして日本の歴史の中で唯一自ら歴史を動かそうとし、世の中の枠組みを変えようとした稀代の傑物の行く末を見てみたかったように思う。