護衛の戦闘機は攻撃機を狙う味方機に向かって降下攻撃を繰り返すが、我々はこれを妨害して味方を助けようと奮闘した。もとより生死は念頭になかったので、私は敵機のど真ん中に飛び込んだり、敵機が後の迫っているのに他の敵を追ったりと大胆なことをやってのけた。
空襲の合間を縫って着陸して燃料と機銃弾を補給して再び飛び立った。そして今度は艦載機の一群を見つけてこれに攻撃を加えた。数の少ない味方は混戦で散り散りになって後に従うのは島田一飛曹ともう一機だけだった。数的には極めて劣勢なので一撃離脱を心がけたが、二回も攻撃を繰り返すと敵機は汐が引くように引き上げて行った。
それを追撃して最後尾の一機を追い詰めて至近距離から機銃弾を浴びせると敵機は爆発して砕け散った。更に攻撃を続けようと去っていく敵機に目をやったが、もう距離が離れ過ぎていて追撃しても無駄だと判断して基地に戻った。着陸して整備員に燃料と機銃弾を補充しておくように言って機体を離れたが、もう二度とこの紫電で空を飛ぶことはないことをこの時の私は全く考えもしなかった。
指揮所に向かうと飛行長に「重大な指示があるので士官は会議室に集合しろ。」と言われて首を傾げながら会議室に向かった。そこで我々は陛下の終戦の詔勅を聞かされ、この戦が終わったことを知った。純粋に自衛以外のすべての戦闘行為は厳しく禁止され、軍はその機能を停止した。終戦を聞いても徹底抗戦を叫んで憤る者が大多数を占めたが、軍はその統制を失わず武装解除は速やかに進行した。
外に出ると待機線に並んでいた戦闘機は骨組だけになった格納庫に戻され、これまで戦うために全精力を傾けて整備を行ってきた整備員の手によってプロペラや機銃が外され始めていた。私はついさっきまで敵と激烈な戦闘を交えていた紫電が戦うための牙と翼をもぎ取られるのを茫然と見つめていた。
その晩、宿舎では士官同士、今後の取るべき方策を廻って議論が沸騰した。詔勅は策謀だとして徹底抗戦を叫ぶ者も少なくなかったが、すでに詔勅が下がった今は粛々としてこれに従うべきだという意見が大勢を占めた。私はそうした議論を聞きながら心の中ではほんの何時間かの差で生き残る者と死んだ者を隔てたものが一体何なのか、それを考え続けていた。
しかし戦争を憎み、軍の体質に反発しながら、唐突に日本の敗戦という形で戦争が終結して、軍自体がその機能を停止してしまうと暗闇にいきなり明かりを消されたように何物も見えなくなってしまって、容易に結論が得られなかった。
翌日、下士官兵については指定された者を除いて帰郷命令が出された。私は士官室から三々五々荷物を背に隊門を出て行く下士官兵を見送っていた。そこに島田一飛曹が入って来た。
「分隊士、いろいろお世話になりました。命令が出ましたので故郷に帰ります。士官の方たちはまだここに残られるそうですが、どうかご無事で。それから奥様のことは本当にお気の毒でした。」
島田一飛曹は律儀に敬礼をした。
「礼を言うのはこっちの方だ。本当に色々と世話になった。どうかこれからも体に気をつけて。」
「私の田舎はここです。落ち着いて気が向いたら訪ねてみてください。何もない田舎ですが、空襲で焼き払われた街中よりは過ごし良いかも知れません。」
島田一飛曹は住所の書かれた紙片を差し出すと部屋を出て行こうとした。
「島田さん、急ぐのですか。」
私が呼び止めると島田一飛曹は驚いたように振り返った。
「いえ、特には。汽車の時間もどうなっているのか分かりませんし。しばらくは街の旅館にでも逗留して
様子を見ようと思っていますが。」
「そうですか。お互い、これからどうなるか分かりませんが、どうか、お健やかに。」
私は島田一飛曹に『どうして我々は生き残ったのだろうか。』と聞きたくて彼を足止めしたが、その言葉をかろうじて飲み込んで当り障りのない挨拶を口にした。もしも聞いたとしても彼にも答が出るはずもないだろうし、死んでいった仲間に対して誰もが背負っている、生き残ってしまったことに対する後ろめたさを表に引き出すことは忍びないと思ったからだった。島田一飛曹はわざわざ呼び止めたにしては通り一遍の私の言葉に意外さを感じたようだった。
「分隊士、どうして我々が生き残ったのか、その理由はきっと一生考えても分からないでしょう。でも命を与えられたのですから、それを大事に生きればいいのだと私はそう考えています。それが死んでいった仲間に対する供養だとそう思います。ではまたお会いする日を楽しみに待っています。」
島田一飛曹は一礼をすると部屋を出て行った。私は残務処理要員としてこのまま部隊に残るように言われて司令部の指揮下に入った。その業務は多忙を極めた。武器弾薬の回収と保管、台帳の作成、重要書類の焼却、米軍の進駐までに済ませなければならないことは山のようにあった。業務の間に格納庫の前を通り過ぎるとプロペラを外されて放置された紫電の姿が目に入った。命を預けて戦った紫電のそんな姿を見るのが辛くて目を伏せると足早に通り過ぎた。
九月になって米軍が進駐して来た。彼等の最初の指示は『紫電四機を至急整備して横須賀に空輸せよ。』というものだった。半月以上放置してあった気難しい誉を装備した紫電が果たして飛ぶのかどうか不安だったが、進駐軍の命令は絶対だったので残った整備員を掻き集めて程度のよさそうな機体を選ばせ整備を開始した。そして指定された日の朝、待機線に四機の紫電が並べられた。見慣れた光景だったが、紫電の翼と胴体には日の丸の代わりに大きく白い星のマークが描かれていた。
空輸要員に志願したが、飛行長に部隊に待機するように言われて断念した。そして空輸隊の出発を見送った。紫電は点火栓や電線を米軍支給のものに交換して潤滑油と燃料も米軍側から良質のものを提供されていたので心配された紫電の発動機は高瀬を撃墜した敵機を追ったあの時と同じように甲高い排気音を響かせて極めて快調だった。そして軽々と離陸すると監視のF六Fを従えて東の方向に飛び去った。飛行する紫電を見たのはそれが最後になった。空輸隊が離陸してしばらくしてから整備員が士官室に駆け込んできた。
「分隊士、紫電が、紫電が燃やされています。」
整備員は涙を浮かべていた。外に出てみると米軍は格納庫に残っていた紫電をブルドーザやトラックで引き出して滑走路の片隅に運んではガソリンをかけて火をつけていた。赤黒い炎が見る間に機体全体に回って外板のアルミが溶け、桁が折れて力尽きたように地面に崩れ落ちる紫電を茫然と見つめる他はなかった。
そうして一機、また一機と焼け落ちていく紫電を見つめているうちに私は体の骨が崩れ落ちるような脱力感と心の奥から突き上げるような悲しさを感じていた。高瀬の死を目の当たりに見た時も小桜が死んだことを告げられた時もこれほどの衝撃も悲しさも感じなかった。戦えば被害は付き物、自分たちは戦争をしているんだ、すぐに自分も立派に戦って死ねる、戦いが続いている限り自分もすぐに彼等のところに行けるんだというある種の救いがあった。
しかし、戦に敗れ、自分たちが命を預けて戦ってきた紫電を目の前でまるでゴミのように燃やされるのを目の当たりにして初めて自分たちの国が戦に敗れたことを思い知らされた。そして戦が続いている間はたとえ両者の間に生と死という深い隔たりがあっても高瀬や小桜を常に身近に感じることができたのに、こうして敗戦というかたちで戦が終わってしまったことを否が応でも認めざるを得ない現実を突きつけられると高瀬や小桜にもう一度出会う機会を永遠に奪われたような陰鬱な思いが圧し掛かって更に私を打ちのめした。
下士官や兵の前でなければ大声で泣き出したかったが、俄か雇いでも士官としての責任感がかろうじてそれを押し止めていた。首の皮一枚を残すような危うさで自分を支えていた私は解散の号令をかけると誰もがそれぞれ敗残の重圧を肩で支えながら宿舎へと戻って行った。