高瀬が直率する編隊は我々よりも約五百メートル低空を飛行していたからそのまま飛行艇攻撃に向かった。
我々は護衛のF四Fを崩しにかかった。高瀬は一度飛行艇の前に出ると切り返してから鮮やかな正面攻撃で先頭の一機を撃墜した。そして続けて後上方からの一撃で二機目を葬ってしまった。その間およそ一、二分、目が覚めるような鮮やかな撃墜だった。我々は向かって来たF四F二機を落としたが、残りは取り逃がしてしまった。
戦闘は高瀬の鮮やかな手際で呆気なく片付いてしまったので我々は編隊を纏めて帰還しようと高度を取っていたところに上から何かが降ってきた。その次の瞬間、最後尾の四番機が爆発して砕けた。
「上に気をつけろ。P四七だ。また来るぞ。」
高瀬の声が受話器から聞こえた。上空を見ると黒い点が十数個浮んでいるのが見えた。高瀬は直率の三機を率いて高度を取りつつあった。どうやら一戦交えるつもりらしかった。その高瀬の編隊を狙って敵機が急降下して行った。高瀬はそれを横転上昇でかわすと後方から追撃して一機を撃墜した。
高瀬の鮮やかな空戦に見とれていると今度はこっちが狙われた。二機が後方から迫ってきた。列機を退避させておいて高瀬の真似をしようとしたが、敵機をかわすことは出来ても彼のように高速の敵機をうまく捉えることが出来ずに取り逃がしてしまった。
高瀬はそれからも自分が囮になって狙ってくる敵機を三機も撃墜した。私たちは島田一飛曹と一緒になってやっと一機を落として四番機の仇を取った。しかし、この戦闘で三番機が被弾したので島田一飛曹を護衛につけて先に基地に返し、私は単機で高瀬たちを追った。
そこにまた敵機が奇襲をかけてきた。三機が連続して急降下攻撃をかけてきたのを横転や機体を滑らせて二撃まではかわしたが、最後の攻撃はかわしきれそうになかった。首を精一杯回して迫ってくる敵機を視界の端で捉えながら『これでいよいよ年貢の納め時か』と観念した時、爆発して砕け散ったのは後から迫っていた敵機の方だった。そしてその爆煙を突き抜けて姿を現したのは胴体に大きな金色の十字架を描いた紫電だった。
「高瀬。」
私は無線に向かって呼びかけた。
「相変わらず無茶な誘い方をするやつだな。貴様があまり呑気な誘い方をするから三機もお客さんを魅惑したじゃないか。」
高瀬は機体を私の横に並べた。風防を隔てて絹のように滑らかな笑顔の高瀬が手を振っているのが見えた。私は高瀬に手を振って答えようとした。その時、高瀬の紫電が苦痛に身を捩るように機体を震わせた。そして次の瞬間、胴体に大きな金色の十字架を描いた高瀬の紫電は爆発して砕け散った。私の機体はその爆風に煽られて大きく揺すぶられた。私は揺れ続ける機体にしがみつくようにして高瀬が飛んでいた場所を見つめ続けた。しかしいくら目を凝らしてもそこには薄茶色の煙が漂っているだけで高瀬の機体はもう何処にもなかった。私には一体何が起こったのかすぐには理解できなかった。
高瀬の機体が砕け散った名残の煙を突き抜けて銀色のドラム缶のような戦闘機が二機、私の目の前を急降下して行った。私の視線はその二機に釘付けになった。そしてその時すべてを理解した。体中の血液が凍りつくような怒りを感じた。周囲からすべての色と音が消えた。心臓の鼓動だけが響き渡っていた。色のない世界を格子の帯を纏った灰色の敵機が飛び去ろうとしていた。
出撃時に胴体タンクにハイオクガソリンが入っていると整備長が言ったことを思い出した。私はハイオクガソリンについて深い知識はなかった。ただ馬力が出ると言う程度だったが、燃料コックを切り替えるとスロットルを思い切り前に押した。発動機が爆発しようと機体が分解しようと構わなかった。目前から飛び去ろうとしている敵機を追撃する力を与えてくれと神に祈った。この機体に力を与えてくれる誉発動機は突然これまで聞いたこともない高い排気音を響かせた。排気管から噴き出す排気炎が私の憎しみの深さを表すかのように青く長く尾を引いた。
色のない世界で青白い排気炎だけが目に痛いほど鮮やかだった。速度では遥かに勝るはずの敵機との距離が徐々に縮まって敵機が照準環一杯に広がった。私が機銃の引き金を引いたのと敵機の操縦士が驚いたように後を振り返るのとはほとんど同時だった。機体を通じて機銃発射の反動が伝わると同時に白く光る曳光弾が敵機に吸い込まれるように命中した。敵機の機体にいくつもの小爆発が起こり、すぐに左翼が折れ、機体はコマのように回りだして後落していった。
私はそこで先頭の敵に目を移した。残った敵機は右に回頭しながら上昇に移った。普通なら上昇力の勝る敵機を追尾しないのが原則だったが、高瀬を殺した敵機を撃墜することしか頭になかった私は機体を右に振って上昇に移った。排気炎はさらに長く青い尾を引いて機体に沿って流れた。これまで驚異的な上昇力を誇って味方を翻弄していた敵機との距離は開くどころか徐々に縮まっていた。
高度が六千を越えようとしたところで敵機は私を振り切れないことに慌てたのか、機体を右に捻って急降下を始めた。高度が上がれば過給機を装備していない紫電には極めて不利になるところを敵機が降下してくれたのは幸だった。互いに数トンの機体を二千馬力の発動機で引っ張りながら降下を続けた。それは命をかけた追いかけっこだった。
色の失せた大地が急速に近づいて来た。高度が一千を切った。もう限界だった。これ以上降下を続けたら機首を上げても間に合わずに地面に激突するかもしれなかったが、このまま敵を追って地面に激突しようと目の前の敵機さえ葬れば私はかまわなかった。
敵機は耐えかねて機首を上げた。上昇しようとしてその全身をこちらの機銃口の前に曝け出した。敵の操縦手がこちらを振り返っていた。その顔は驚きと恐怖で引きつっていた。私は構わずに照準環の中に捉えた敵機に向かって引き金を引いた。ほとんどすべての射弾が敵機に吸い込まれるように命中すると敵機は爆発して砕け散った。その煙の中を突っ切ってほとんど地上すれすれで機体を引き起こした。そしてそのまま放心したように上昇を続けた。
「武田五番、集まれ、集まれ。」
緩やかに上昇を続けながら味方を呼んだ。誰も答える者はなかった。私は上昇を続けた。自分が戦場にいることも忘れていた。何時の間にか高度は一万メートルに近づいていた。突然私の目の前を紫電が横切った。我に帰って目を凝らすとその紫電には大きな十字架が描いてあった。
「高瀬。」
思わず声に出して呼びかけると風防の中で絹のように滑らかな笑顔の高瀬が振り返った。
「高瀬、帰るぞ。」
私は大声で呼びかけた。しかし高瀬は何も答えてはくれなかった。そして突然信じられないような急角度で上昇を始めると見る間に視界から消え去った。私は慌てて四周を探したが、飛んでいるのは私だけで後は何時の間にか色の戻った青黒い成層圏の空が広がっているだけだった。
「帰るぞ、高瀬。俺は帰るぞ。」
私は独り言のように呟くと操縦桿を倒して機体を降下させた。
「武田五番、武田五番、応答せよ。」
受話器が鳴った。基地からの呼び出しだった。
「武田五番、現在位置、阿蘇山上空、高度八千。只今より帰投する。」
私は進路を北西に取りながら徐々に高度を下げていった。そして滑走路を認めると着陸のための旋回に入った。その時、ちょうど指揮所の反対側の草むらあたりから煙が立ち上がり、周りで大勢の人が忙しなく動き回っているのが見えた。たしか、戦時医療所に使用している壕のあたりだった。