しかしな、俺達はただの鉄や火薬の塊ではない。自分達が直面しているこの運命を考えて何かを残すことはできるはずだ。どうしてこの国は国民に爆弾や砲弾の代わりとなることを要求するまで追い詰められてしまったのか。そこに至った過程を考えて後の世代に残すことはできる。二度とこんな過酷な運命を国民に押し付けることのないように。そのためにはどうすべきだったのか。
日本は開国以来近代国家に必要な高度な知識を例の金科玉条暗記教育で極めて短期間のうちに効果的に国民に広く行き渡らせることに成功した。しかしそれは必要に応じて教育を行う側が取捨選択した知識を一方的に流し込んで記憶させただけで、元来集団への帰属意識が強いこの国の国民に自ら考え、自ら判断することを放棄させてしまう結果になってしまった。
今度の戦争は単に兵器の性能や生産力だけの敗北ではないのかもしれない。日本は練り上げた戦略が崩れてしまったら、後はただ手もなく智恵もなく同じ戦法を繰り返しては手の内を敵に曝け出し、何らなすところなく半ば自滅するように敗戦を重ねてしまった。考えれば戦い方は幾らでもあったはずだ。いや、戦術や戦略だけに限ったことではない。政治、外交、科学技術、文化、すべての分野にわたって我々の知性は欧米のそれには遠く及ばなかった。
だからこそ何とか欧米に追いつこうと無理を重ねた。その結果が今度のこの戦なのかもしれないな。この戦は戦力や生産力といった有形的なものだけでなく知性や文化という無形の財産でも我々が彼等に及ばなかったことを証明しているようなものなのかもしれない。
日本は間もなくこの戦に破れる。日本の国力は敵の攻勢をあと半年も持ち堪えることは出来ないだろう。そして敗戦後は米国の管理下に置かれることになるだろう。一部の者たちは敗戦後米国の管理下に置かれることを国家の破滅のように考えて異様に恐怖しているようだが、俺はそのことはあまり心配はしていない。
米国は現体制の破壊と戦争犯罪人の断罪といったことは自国に都合の良い新体制の構築と併せて徹底して行うかもしれないが、陸海軍の士官全員を処刑するとか、男を全員去勢するなんてそんなばかげたことはしないだろう。しかし彼等の独善的な正義感や主義主張を日本に強引に押し付けてくることは大いにあり得るだろう。それにしても日本人はそれが誰であろうと共同体の長には極めて従順だ。それが誰であろうと、きっと長に従ってよく仕え、長にとっては良き民となることだろう。
戦後の混乱にしても俺はそれほど長くは続かないと思っている。米国はきっと敗戦国に正義の味方を気取って充分な援助をするだろうし、ソビエトや中国などの大陸国家の動向に次第では日本は米国にとって手放すことのできない西太平洋の戦略上の要衝となるだろう。元来創造力や柔軟性といったことを除けば、勤勉で優秀な日本の国民はおそらく十年もすれば戦後の混乱を抜け出して再びこの国を成長期に移行させるだろう。
そしてその頃には現在欧米の植民地となっているアジアの諸地域も順次独立してアジア圏という国際地域社会の形成に向かって動き出すだろう。その中でやはり政治的にも経済的にもアジア圏の牽引車としての能力を持った国は、まあ国際地域社会を主導する資質のひとつとして当然相応の軍事力に裏打ちされた外交能力を備えていることが条件で、日本がその時そうした外交能力を備えているかどうかは今の時点では疑問だが、妥当な考え方をすれば日本ということになるだろう。あるいは日本はアジアの牽引車でなければならないのかもしれない。ただし、それにはいくつか条件がある。
この国はいつも内側を向いて自分たちの世界の中で結束しようとする。要するに何か問題が起こると状況を分析しようとしないで自分たちの理論だけで自分たちの共同体だけを保全しようとする傾向を持っている。まず自分と近親者という考え方だ。それは確かに誰にとっても真理なのだが日本人はあまりにもそれを天真爛漫に露骨に表に出しすぎる。それでは他国は後について来ない。力を持った国ならばそうした国々よりもまず先に立って汗を、そして時には血を流すことも覚悟しなければいけない。
しかしお人好しに汗や血を流し続けていたのではただ国家が疲弊するだけで何の利益もなくなってしまう。そういう時にこそ冷徹なほど客観的な状況判断とその状況に応じた的確な対策を立て得る能力が求められるのではないかと俺はそう考える。日本という国の再生と発展だけを考えるなら、たとえ今回の戦争でこれだけの破壊を被ったとしても、俺はそう難しいことではないと思う。しかしアジア圏という国際地域社会の中で牽引車となって他の国家とともに発展を共有するには相応の資質が要求される。だからこそこの戦いが終わって生き残っていたらもう一度学問ということを考え直してみようと思うんだ。
『学問とは何か。そして何のためか。』
大上段に振りかぶって答えればそういうことだが、要するに我々は何をどのように学ばなければならなかったか、これからどのように学んでいけばいいのか、それをしっかりと考えてみようとそういうことだ。物質的な裕福さを回復するのはそう難しいことではないと思う。しかし知性や文化を育て上げて真に成熟した国家を創り上げることは決して容易くはない。何をどのように学んで身につけていくのか、全く例のないことを考えていかなければいけない。それは日本人が最も不得手とするところだ。だからこそ誰かが取り組んでいかなければこの国はまた近い将来同じ過ちを繰り返すことになる。
貴様にしても俺にしてもこの戦に生き残ることは難しいだろう。貴様もざっと数えてももう三回は死に損なっている。俺はもっと数が多い。しかし、もしも生き残ったらこのことは必ずやらなければいけない。戦の酷さ、悲惨さを、身を以って体験した我々が徹底的に今度の戦を分析して今後の日本の将来に役立てること。それがこの戦で死んでいった者たちに対する餞であり義務なんだと思う。
なあ、武田、貴様の言うとおり学問は、そして知性は誰にとっても優しいものでありたいし、そうでなければいけないのかもしれないな。学問は特定の者たちの閉ざされた特権ではなく、誰にも開かれた大らかな優しい知性であるべきなのかもしれないな。
この数十年間、日本の学問的な教育は常に実社会の役に立つか立たないかという視点で捉えられ、その結果を重視して行われてきた。あるいは時として学問は人間を計る道具としても用いられてきた。もちろん学問にも結果は付き物だし、それはそれで大切なことなのだが、教育の場においてはむしろ結果よりも結果に至る過程こそ重んじられるべきではないのか。
結果はこうなのだ、ではなく、どうしてそうなるのか。もしも結論が間違ったら一体何処でどうして間違ったのか、それを考えることこそ本当に必要なことではないのかな。状況を取り込んで考えること、それこそ日本が本当に力を入れて取り組むべきことだったのではないのかな。そうして複雑かつ流動的な状況に柔軟に、そして的確に対応できる人間を育てておくべきではないのかな。
米国にはケーススタディとか危機管理という事案対処方法があるそうだ。ある事案に対して考え得るあらゆる状況を想定して、それぞれその状況についてどのように対処するか、その得失を研究する方法や考え得る最悪の状況を想定しておいて、その状況に如何に対処するかを研究するやり方だという。
そういえば海軍にも図上演習という似た様なやり方があったな。伝え聞いた話では正規の方法で対米戦を行うと何度演習をやり直しても三年もしないうちに連合艦隊は何処に集まっても敵の空襲を受けるまでに追い詰められ、それこそ『天が下、隠れる場所もなし。』という惨状になってしまったらしい。それで陛下の御前で図上演習をする時には連合艦隊が絶対に負けないように想定を変更して、期限を区切ってやっていたらしい。まさか陸海軍は全滅、日本は敗北という演習を見せるわけには行かなかったからだそうだが、状況によっては事実を率直に伝える勇気も必要だったのかもしれない。
一体誰が戦争を始めたのか。政治家は軍部が武力を背景に暴走したと言うだろう。軍部は政治家の無能無策を責め、国家の計を案じて敢えて開戦したと訴えるかもしれない。しかし政府にしても軍にしても『日本は戦えない。戦えば敗北する』とは言い得なかった大きな流れがあったのではないのか。それはこの国独特の情という概念なのかもしれない。政府は富国強兵のために軍を育ててきた。その軍は政府を乗り越えて巨大化してしまった。
その巨大化した軍は国民に富国強兵思想を植え付けて育て上げた。今度は『日本は不滅不敗の神国だ。』という国民一人一人の情が軍を乗り越えて巨大化してしまい、政府はおろか軍さえもこれに反して正面切って非戦論を唱えることはできなくなっていた。後はもう運を天に任せて戦争へとなだれ込む以外に誰にも方法はなかった。本当なら将来に向かっての目標をきちんと設定して、あらゆる状況を客観的に検討して必要に応じて修正を加えながら、どうしたらその目標を達成できるかをしっかりと考えなければいけなかったのに結局は情に流されて運に任せて開戦してしまった。
もう二度とこんなことが起こらないように、もう一度しっかりと学び直すべきだな、俺達は。柔軟な思考、冷徹な分析力、的確な判断力、情に流されない強固な意志、時に真実を公言できる勇気、そして優しさ。俺達はどうしたらそう言ったものを身につけることができるのか、それを真剣に考えていかなければいけないのかもしれないな。」