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「ねえ、あの営業の彼、ちょっとおかしくない。何だか凝り固まっているみたいで。」

僕が女土方に囁くと女土方は「へえ」という風情で僕を見た。

「そうなの。真面目な性格で几帳面な人よ。よく仕事もするわ。特におかしくはないと思うわよ。でも芳恵フリークだという話は聞いたことがあるわね。いいんじゃない、男性に好かれるってことは。女として幸せなことなんでしょう。あなたはヘテロなんだから。」

「そうなの、じゃあ私が彼のところに行ってもいいのね。」

僕は女土方の他人行儀な言い方にちょっと反感を感じてしまった。

「そうなったら淋しいだろうけどあなたがそうしたいなら仕方ないじゃない。私にはどうしようもないわ。」

女土方は淡々とした口調でそう言った。そんなことになったらもっと困るのはこの僕だ。最近の女土方はこの手の話には変に敏感でかなりあからさまに嫉妬することがあるのでちょっとした捩れも放置すると取り返しのつかないことになるおそれがある。ここは一つしっかりと自分の意思を女土方に伝えておかないといけない。

「私ね、あなたと知り合ってから男よりも女の方が良くなったわ。女の方がと言うよりもあなたが好きなの。だからずっと一緒にいようね。」

こんな席で外見が女の僕がこれもビアンとは言え正真正銘女の女土方にこんなことを言うのは不穏当かもしれないがきちんと意思は伝えておかないと綻びが生じる恐れがある。

「分かったわ。ありがとう。」

女土方も満足そうに僕に向かって頷いた。

「ねえ、主任、一体どうなっているんですか。この有様は。どうしてこんなことになっちゃったんですか。」

テキストエディターのお姉さんが僕たちのところに寄って来た。彼女にしてみれば今のこの事態は寝耳に水、青天の霹靂だろう。

「どうもこうもないわよ。見てのとおりのことよ。その流れの真ん中にあなたもいるってことじゃないの。」

これまで事態の推移を他人事のように捉えていたテキストエディターのお姉さんにとっては気の毒だがこれも人生、気を取り直してがんばってもらう他はない。

「ねえ、私がどうしてここにいるの。私はここで働くなんて言った覚えはないんだけど。」

今度はクレヨンが不平を申し立てた。でもお前には選択の権利なんてないんだ。

「あなたは言われたとおりにすればいいのよ。あなたの場合、保障占領中の敗戦国のようなものなんだから。言われたことは黙って従いなさい。」

クレヨンにはきつく言渡してやった。大体お前の面倒を見てやるのは誰なんだ。こっちは給料の他にクレヨン迷惑料でも欲しいくらいだ。でも保障占領中の敗戦国なんてことを言っても意味が分からないらしくクレヨンはぽかんとしていた。

僕と女土方の周りにはテキストエディターのお姉さんとクレヨンが、北の政所様の周りには社長と常務それにマルチリンガルさんがいた。株屋さんと営業さんはそれぞれ残りの役員と話し込んでいた。そうしているうちに段々酒が回ってきて座が乱れてきた。株屋さんも僕達のところに入って来た。女土方と同じ職場だったんだからもっと早くに来てもいいようなものだけれどどうもあまり社交的ではないのともう一つ女土方とはやや疎遠らしい。まあ女土方も根はとても優しいけれど少なくとも外見は決して社交的とはいえないかもしれない。

 そこに今度はマルチリンガルさんが北の政所様と一緒に加わった。この女はさすがに卒がない。誰にも愛想良く挨拶して回っていた。こういう時はやっぱり美人は得なのかもしれない。何しろ男は馬鹿だからきれいな女には警戒心を抱かない。でもどうもこのマルチリンガルは何となく言葉の端端に一筋縄では行きそうもない強かさを感じさせた。やっぱり兵の集まりなんだろうな、この集団は。

 宴会は役員連中と僕たちとの間で「まあ一つ、」「ありがとうございます。どうぞ、一献」の応酬に終始し、誰も彼もかなりぐでんぐでんの態を呈して来た。株屋さんと営業君はお互いにもたれかかって何やら訳の分からないことを言い合っていたし、テキストエディターのお姉さんとクレヨンは役員に囲まれて甲高い笑い声を上げていた。北の政所様は社長と注しつ注されつ良い雰囲気で杯を重ねていた。比較的平常を保っているのは僕と女土方そしてマルチリンガルの三人だったが、そこに常務と経理担当がよれよれになってビール瓶を提げてやって来た。

「いやあ、皆さんにはがんばってもらわないと、なあ、経理担当。」

「いや、本当ですね。当社の経理も決して楽観は許されない状況ですが、今後新たな分野に進出して利益を上げて頂かないと。」

 こいつら何だか二人で訳の分からないことを言いながら僕たちに無闇とビールを注ごうとしていた。ビールを注ぐだけならそれはそれで良いのだが、「いや、佐山君、どうかがんばって。」とか「やあ、吉岡君、ご苦労だけど。」などと言いながら体に触れてくるには閉口した。女土方は例の冷徹な視線でこの二人をけん制して飲んだくれおやじのタッチ攻撃を跳ねつけていたが、マルチリンガル、彼女の本名は吉岡というのだが、と僕がその攻撃の標的になった。

 さすがに現役秘書のマルチリンガルは卒なく笑顔でうまく攻撃をかわしていたが、僕は組し易しと思われているのか肩と言わず背中と言わずあげくの果ては腰までも触りまくられた。僕は男だからそういう男の行為も止むを得ないことと理解出来ないことはないが、やはり男にあちこち体を触られるのは気色の良いものではない。
 
 とうとう肩を抱くような体制で常務が迫ってきたところをいきなり立ち上がったら常務は行き場を失って前のめりに四つん這いに畳に倒れこんで手に持ったビール瓶を床に投げ出した。経理担当とマルチリンガルが慌てて助け起こしたが、僕は「助平爺、かまうものか」という思いでそのままトイレに立ってしまった。

 僕は廊下に出るとトイレと思しき方向に向かって歩いて行った。この時僕はほとんど平常心と思いながら歩いていたが、実はかなり酔っていたのだろう、ここで思いもつかない大失敗をやってしまった。もう女もかなり長いことやってきたので女生活も慣れ切っていると高をくくっていたのが大きな間違いだった。

 僕は当たり前のようにトイレに入ったが、そこは男性用トイレだった。そして男性専用の便器の前に立ってカーゴパンツのファスナーを下ろしてもうあるはずもないあれを引っ張り出そうと手を差し込んで探っていた。そのうちにはっと気がついて手を止めた。何だか奇妙な雰囲気に気がついて差し込んだ手を引き出すとそっと出入り口の方を見た。

 そこには目を瞠って凍りついたように立ちすくむ一人の男性がいた。四十数年の時間とは何と重いことだろう。僕は当たり前のように男子トイレに入ってしまったのだ。そしてもっと当たり前のように男子専用の便器の前に立って用を足そうとしていたのだ。女生活に慣れ切っていると思っていたが、男性として生きてきた時間の何と重いことだろう。ちょっと気を抜くとこのざまだった。

 僕は酔っ払った振りをしてこの場を誤魔化して逃走しようとわざと千鳥足になって「あら、ちょっと間違えちゃった。ごめんなさいね。」と言いながらトイレから逃げ出した。入り口に立っていた男性は壁に張り付いて僕を避けるように見送っていたが、きっとニューハーフか何かと思ったんだろう。

 僕はすぐに隣の女子トイレに入ると今度は女性の作法で用を足した。これも最初の時のようには違和感も感じなくなっていたがあまりにも自然に男の作法で用を足そうとした自分を思うと変わり果てたわが身に複雑な心境だった。僕は用を済ますとさっさと宴会の席に戻ったが、もしも男があんな具合に女子トイレに入っていたらそれが例え悪意ではなくとも「ごめんなさい。」では済まなかったかも知れない。

 席に戻ると座は更に盛り上がっていた。盛り上がっていたというよりも乱れていたと言うべきだろうか。女土方は北の政所様の脇に避難して例の常務と会計担当の相手をマルチリンガル一人がしていた。

「おお、佐山君、何処に行っていたんだ。待ちかねたぞ。」

 僕の姿を見ると常務は町の器量良し娘を手にかける悪代官のようなことを言った。マルチリンガルが『ここに来て座って。』と言うように目で僕に合図をした。こんな酔っ払い爺のところなんか近づきたくはなかったが仕方がないので出来るだけ酔っ払いから離れて座った。

「佐山君、君の企画に我が社の興廃がかかっているんだからどうかよろしく頼む。」

 この爺は僕ににじり寄って来ると僕の両手を握って特攻隊を送る司令官のようなことを言い出した。この爺は女の手を握りたいがためにこんなことを言っているんじゃないだろうか。そういうところは男というのは何とも滑稽と言うか悲しいほどの生き物だと思う。

 だから大企業の社長になっても大政治家になっても色にしくじって権力の座を滑り落ちるのが後を絶たないんだろう。でもそうした男の悲しいほどの滑稽さが痛いほど良く分かってしまうと無下に拒否もしたくはなかったが、でもやっぱり男に触られるのがおぞましいので「がんばります。」と言って爺の手を力一杯握ってやった。女の力だから大したことはないだろうけど最近ウエイトで鍛えているのと不意を突かれたせいか爺はびっくりしたように握った手を振り解いた。僕はどうしても強制力行使で問題を解決しようとしてしまうな。

「それじゃあそろそろどうだろう。」

 社長の一声で宴会はお開きになった。結びの言葉はあの常務だった。それでもあまり余計なことは言わずに「皆で力を合わせて我が社を盛り立てて行こう。」と言う程度の簡単な結びで終わった。

 僕はそれを聞きながらさっきのトイレの出来事を思い出して一人で顔を赤らめてしまった。男子用のトイレで一人前の女が男子用便器の前で股間をまさぐっているのを見たあの男は一体何と思ったことだろう。潜在意識なのか何なのか分からないが染み付いた習慣と言うのは恐ろしいものだ。

 割烹を出ると北の政所様が「皆でカラオケに行こう。」と言い出した。室員全員と社長でということらしいが、株屋さんは「疲れた。」とか何とか言って引き取ってしまった。僕もカラオケなんか大嫌いだし酒を飲んでも楽しくないのでもう帰りたかったんだけど何となく有無を言わせない雰囲気があったのとクレヨンとテキストエディターのお姉さんが酔った勢いで行け行け状態で「おい、芳恵、咲子、行くぞ。」などと大声を上げていたので何かしでかしてもまずいと思い仕方なくついて行くことにした。