平和に対する罪、人道に対する罪、平和や人道と言う言葉は確かに美しく尊い。しかし、それを誰が決めるのだろう。勝者が敗者を裁くのが真の正義だろうか。敗者のみが平和や人道に対する罪を負うべきなのか。もしも戦争責任を裁くのなら全くの第三者によってそれを行うべきだろう。戦の当事者がすべきではない。戦争は破壊と殺戮以外の何物でもない。多く破壊し、多く殺した者が勝利する。その勝者が敗者に平和や人道に対する責任を負わせることが正義と言えるのか。
アメリカにとってアフガン戦争はそれなりに自存自衛の戦いと言えないこともなかったが、今回のイラク戦争はそもそもその馴れ初めからして怪しげだ。大量破壊兵器を理由に世界第二位の産油国であるイラクの石油利権獲得を狙ったアメリカの策謀と言えないこともない。イラクが危険だと言うのなら北朝鮮はもっと危険かもしれないが、損害ばかりで何も得る物がない北朝鮮にはアメリカは手を下そうとはしない。
国家が軍隊や武力を保持することが一概に悪いとは言えない。この世の中には武力によってしか解決出来ないことがあるようだから。話し合いと言うが、何事も話し合いで解決が出来るほど人間が高邁な生き物とも思えない。だからと言って無闇に戦争などされてはたまらない。武力の行使は国家的な正当防衛あるいは緊急避難という真に自存自衛の場合に限られるべきだ。
人間達よ、戦うな。戦って生まれるのは殺戮と破壊とそして永遠に途切れることのない憎しみの連鎖だけだ。武力を行使する前にやるべきことがたくさんあるだろう。大陸進出政策から太平洋戦争へと突き進んで行った日本のように。あの時、日本にも言い分はあったかも知れない。日本だけが悪かったわけではないと。確かにそれは事実だった。あの戦争が始まった責任は日本だけが負うべきものではない。しかし、真に自存自衛の戦争とは言い難い部分があったことは確かなことだ。まだ、戦いを回避するためにすべきことがあったはずだ。
「皆が仲良く平和に」などと言うことが他愛もない絵空事だと言うことは身近な世間を見ても良く分かる。隣近所や職場などのほんの小さな世界でも摩擦だらけだ。それが国家の利権が渦巻く国際社会では自由、平等、人道、平和、相互理解、協調など拝みたくてもありもしない架空の概念を並べたようなものだ。だから仲良くしなくてもいいじゃないか。戦うことさえしなければ。殺し合い憎しみ合うことさえしなければ皆が仲良く暮らしていく必要なないだろう。
おい、アメリカよ、自らが手を下すことを止めただけでも少しは学習したのか。しかし、背後で影響力を行使することも基本的には同じことで何も変わらない。それにな、少なくとも戦いの悲劇を避けるためには強者は弱者に優しくあるべきなのだよ。それがどうして自己が強者であり続けるためにそのスーパーパワーを弱者に向かって振りかざすのか。個人としてアメリカ人が嫌いなわけではない。しかし、国家としてのアメリカ合衆国に向き合うと実利主義や合理主義を超えた横暴と言っても差し支えない暴挙が目に余るように思うのは僕だけだろうか。