「どの道戦争からは逃れられないと志願して海軍に入って二年、最初の一年は息つく暇もないほどの詰め込み教育、それが終わってからは最前線に放り出されて激戦に継ぐ激戦でゆっくり物事を考える間もなかったが、海軍に入って戦争を経験して普通の状態でははっきりと見え難かった日本人や日本という国の本質が、戦争という極限状態に置かれたために少し形になって見えてきたように思う。
年の始めに傍若無人にも海軍次官に向かって二人で散々毒づいたことがあったよな。あの時に教育について意見を言ったよな。覚えているか。」
「ああ、覚えている。貴様、金科玉条教育とか毒づいていたな。」
「うん、その金科玉条教育はこの国が共同体を基礎にして成り立っていることと深く関係しているんじゃないかとそう思うんだ。」
「共同体。つまり家とか部落とか一族とか、そういった生活共同体のことか。」
「そうだ、その共同体だ。日本は基本的に集団で稲作を営んで生命を繋いできた民族だ。集団で生活し、それぞれ作業を分担して個人の労働の結果を収穫という集団の目的に昇華させてきた。個々の人間の分担はそれぞれ異なってはいたけれど、先にある目的はただ一つ、収穫だ。それは誰にとっても明らかなことだったから、個人は将来のための展望やそこに至る方策などは考えることなく割り振られた役割を全うするため自分に付加された作業をどうやって効率的に、そして上手にやってのけるか、その技術を磨くことに専念して、物事を広く遠くまで見渡して考えることを忘れてしまった。
身近で言えばそのいい例が零戦や一式陸攻だ。軍側の仕様の問題も含めての話だが、あれは兵器ではない。確かに飛行機としては良い性能だったのかも知れないが、兵器とは戦うための道具だ。弾を撃つだけでなく、敵の弾が当ることも考えるべきだった。戦が景気の良い時はそれで良かったが、傾いてきたらばたばた落とされた。防弾を省いてしまったつけが回ってきたんだ。遠くまで飛ぶことや軽快に動き回れることと引き換えに掛け替えのない死なせるべきではない熟練搭乗員を大勢殺してしまった。
日本人のやることは何処か近視眼的だ。目的を定めるとそれに向かってまっしぐらに突き進んで行く。周囲の状況などお構いなしだ。状況が変化しても対応どころか、変化それ自体を認識しようともしない。
しかも、生活、つまりそこにいる人間の命を繋ぐことを目的としている共同体では当然個人よりも共同体の目的を優先させる。共同体を構成している個人にしてみれば共同体の存在自体が自分たちの命の保証に他ならないのだから個人は共同体の存続のために持てる力を注ぐようになる。
個人は命の保証と引き換えに共同体の目的達成、つまり自分たちの命を繋ぐための役割を分担する部品となった。自分たちの命の後ろ盾となった共同体だから個人は目的達成のために、ただひたすら与えられた仕事に精を出す。そんなところでは柔軟な創造力や思考力などという個人の能力はしっかりと組み上がった体制を破壊する害毒でしかない。共同体を発展させていくためには人間の個性を抑制して都合のよい知識を都合のよいレベルで比較的均質に教育することが出来る金科玉条教育は都合がいい。
教えられる方も目的は単純明快なのだから考えることはない。共同体の維持発展に向けて自分がしなければならないこと、つまりノウハウだけを所属している共同体から吸収すればよかったし、それは共同体の目的に合うよう充分に噛み砕いた知識だから吸収もし易すかった。自分であれこれ思い悩んで、何が必要かを試行錯誤して確認する必要もなかった。手間のかかるノウホワイなどは放り出してとにかくどんどん飲み込んで吸収していけばいい。そして実際にそれらの知識は共同体の中では使い易い。よく役に立つ。それはそうだ、共同体の役に立つように考えて与えられた知識だからな。
ところが一つ大きな落とし穴があった。稲作、つまり農業というものは経験則こそ必要だが、基本的に物事は穏やかに進行していく。咄嗟の状況判断などは必要としない。経験則を重視して予め筋道を立てて規則正しく進められるそのやり方は世の中が平穏で急激な変化の少ない時にはまことに都合がいい。物事はあらかじめ想定された筋道に従って滞りなく滑らかに進んで行く。共同体の構成員の意思統一も皆がある程度似通った知識を持っているからやり易い。万事めでたし、めでたし、言うことはない。
こうした考え方は代々受け継がれてきて近代になって社会が高度に複雑化しても基本的には変わることがなかった。共同体の思考は近代社会の機能体にもそのまま受け継がれた。目的達成が最優先の機能体も予め考え抜かれた計画通りに物事が動いていればとてもうまく機能した。
しかし、時として社会が複雑になればなるほど物事はこちらの思惑通りには動いてくれなくなることがある。国内の大方同じ思考に裏打ちされた共同体同士の摩擦では相応なところで手打ちが成立して徹底的に争うことはなかったし、相手の対応も読みやすかった。しかし明治維新以降に始まった外国との交渉ではなかなかそうは行かなくなって来た。自分たちを取り巻く客観的な状況を素早く判断して取るべき方策を臨機応変に弾き出さなければいけない、そうした対応を迫られることが多くなった。
日清、日露の戦争では日本はそうした複雑な対応を体験したのに勝利にかまけて取りこぼしてしまった。一回戦ぽっきりの薄っぺらな国力しか持たない貧乏な小国は英米という世界を支配していた大国の国益によって危ういところを救われた。その時にそのことを本当に理解していた人間が何人いただろう。それを理解していた者達の意見も「勝った、勝った、日本は大国だ。」の歓呼の声に押し流されて口を噤まざるを得なかった。
そして第一次世界大戦、ここでは日本はほとんど犠牲を払うことなく利益だけを丸々手に入れた。気がついた時には英米と並んで世界の三大強国にまで上りつめていた。しかしその地位は真に日本が成熟した国家へと発展して得たものではなく、ロシアが共産化し、帝政ドイツが大戦に破れて崩壊したために転がり込んできたもので、その時日本は爪に火を点すような思いで作り上げてきた陸海軍の他は英米に匹敵するようなものは何物も持ってはいなかった。
遅れた先端技術、農業や軽工業を中心とした貧弱な産業、そして何よりも致命的だったのは障害に突き当たると自分たちを取り巻いている客観的な状況を判断した結果に基づいて解決方法を求めようとすることなく、それまでの自分たち自身の経験則だけに照らして身内の意見の一致を見たうえで行くべき方法を探る意思決定の方法と国家や国民を考えずに自己が所属する共同体の存続のみを優先しようとする考え方だった。俺はそう思うんだ。