沖縄が陥落して戦況はまた一つ節目を越えた。敵は本土への侵攻に備えて戦力の蓄積を始めた。伝え聞く噂では九州への侵攻の時期は一〇月、そして翌昭和二一年の春には関東に上陸、東京を制圧してこの戦争に決着させる計画とのことだった。

 軍部は陸軍を中心に本土決戦の準備を進めてはいたが海上封鎖と空襲によって資源は枯渇し、破壊され尽くした生産手段と寸断された交通網のために武器弾薬の生産も部隊の移動も思うに任せず、ただ決戦、決戦という言葉だけが空しく国中に響き渡っていた。部隊も機体や発動機を生産する工場が空襲でほとんど破壊されたため補充が続かず出撃可能な機数は二十機を若干上回る程度にまで落ち込んでしまった。

 元々彼我の戦力比は比較にもならないほど開いてしまっているのに本土決戦に備えて味方は出撃を制限してしまっているからもうお話にも何もならなかった。出撃してもたった二十機ばかりの戦闘機で数百機の敵に戦いを挑むには泥棒のように抜き脚差し足で敵に忍び寄り、引き上げようとしている敵に一撃をかけると後は一目散に逃げ帰るのが精一杯だった。そんな戦い方はただ海軍の面目のためにしているようで高瀬が言う国や国民を守るという理想からは程遠かった。

 こうして彼我のあまりの戦力の開きに全滅を避けるために一撃離脱が当然のようになってしまった中で高瀬は人が変わったように粘っこく敵に食いついていった。特にB二九には燃料が切れる寸前まで反復攻撃を繰り返した。高瀬がそうして危険を顧みずに戦うようになった理由は明らかだった。

 一機でも多くの敵を撃墜することが一人でも多くの国民を救うことになると考えているに違いなかった。しかし多勢に無勢の状況で敵との交戦を長く続ければいくら天才と言っても当然被弾戦死の危険が増すことになるが、高瀬は全く意に介していないようだった。

 燃料切れ寸前で白煙を吐きながらよろめくように滑走路に滑り込んできた高瀬の機体に駆け寄ると、そんな我々には目もくれずにまだ止まらない機体から身を乗り出して「予備機を用意しろ。」と大声で叫んで再出撃しようとしたこともあった。そしてそれを押し止めようとする飛行長に「海軍は我々を信じて戦争を支えて耐えてきた国民を裏切るのですか。敵はまだ頭の上にいて国民を殺しているんです。」と食ってかかった。そんな高瀬に誰一人として言葉を返す者はなかった。

「敵機、十時の方向から急速に接近します。」

 見張り員の絶叫でこの騒ぎはひとまずお預けとなった。B二九と入れ替わりに艦載機の大群が来襲した。戦闘機をB二九の迎撃に使い切ってしまった我々には入れ替わりに襲ってきた艦載機の大群には打つ手がなかった。対空機関砲が応戦して何機かの敵機を撃墜はしたものの基地は敵の銃爆撃に蹂躙された。

 高瀬が操って戻って来た機体は真っ先に狙われて炎上した。対抗する航空機を持たない我々は退避壕の中で首を竦めていた。

「民間人の女性が機銃で応戦しています。」

 誰かが叫ぶ声が聞こえた。その声で我々は壕から首を出して爆煙の立ち込める飛行場を見回した。待機所の裏に据えられた単装機銃が急降下してくる敵機に向かってしきりに曳光弾を撃ち上げていた。その機銃に取り付いているのは小桜だった。そして機銃から百メートルくらい離れた滑走路上に整備兵二名が傷ついて倒れていた。整備兵は這って退避壕に向かおうとしていた。

 口径二十五ミリという大型の対空機銃は女手で扱うには手に余る代物だった。女の力では反動を押さえきれないため弾道は安定せず撃ち出される弾丸は上下左右に散った。私は反射的に壕を飛び出して機銃に向かって走った。敵機は急速に接近して来ていた。急ごうとすればするほどもどかしいほど足が前に出ないように思えた。やっと小桜に近づいて来た時、弾倉を入れ替えていたのか射撃を中断していた機銃がまた火を吐き始めた。それと同時に敵機が射撃を開始した。

『危ない。』

そう思った瞬間、敵機に機銃の発射焔とは違った火花が散った。

『やった、命中だ。』

 私はその場に立ち止まって空を見上げた。被弾した敵機は白煙を引きながらよろめくように飛び去った。後続の敵機も慌てたのか左右に向きを変えると攻撃することなく飛び去っていった。その間隙を縫って退避壕にいた者が倒れている兵員の救出に走った。私は小桜のところに急いだ。

「大丈夫か。」

対空機銃にもたれかかって呆然としている小桜に声をかけた。

「無茶をするな。戦闘は我々に任せておけ。」

小桜はゆっくりと私の方に顔を向けた。

「私は戦うつもりなんてありません。ただ怪我をして倒れている人を助けなければ、怪我をしていない私が守ってあげなければ。そう思っただけです。」

小桜は小さな声でゆっくりと言った。

「分かった。もう大丈夫だ。おい、誰か、非戦闘員を退避壕に連れて行ってくれ。」

私は大声で隊員を呼んだ。

「大丈夫です。私は病院に戻ります。」

小桜はそう言うと治療所にあてがわれている壕へと小走りに走って行った。

「敵の第一波は西方に退避中。代わって第二波、西方より接近中。対空戦闘合戦準備、対空戦闘合戦準備。」

スピーカーが割れた耳障りな音で敵情を伝えた。

「上がるぞ、戦闘機を用意しろ。」

 高瀬が整備に向かって叫んだ。同時に退避壕で首を竦めていた搭乗員が掩堆壕に引き込まれた戦闘機に向かって走り出した。私も手近な掩体に走って紫電の操縦席に駆け上がった。

「回せ、上がるぞ。」

呆気に取られている整備員に叫ぶと「燃料が十分に入っていません。」と答えが返ってきた。

「構わん、どこに降りても日本だ。」

 燃料計の針が半分を超えていることを確認して、私は高瀬の台詞を借用して少し気取って見せてから車輪止めを外すように合図した。誘導路を長々と走ってから滑走路に出ると発動機を全開にして空へ上がった。

「山下一番、山下一番。我に続け。」

 先に離陸していた山下隊長の無線が入った。私は前方を行く山下、高瀬の両機を追った。敵よりも上で待ち構えれば有利なのは空戦の鉄則だが、空襲の合間を縫って空に上がった我々には充分な高度を取る間もなく敵編隊と遭遇した。

 敵は戦爆連合約百機、味方はたったの十数機、あっと思う間に敵のど真ん中に飛び込んでいた。その後はほとんど手当たり次第に目の前を通り過ぎる敵機に向かって機銃を撃ちまくって敵の群がる空を飛び抜けた。命中は確認できても撃墜や損害はとても確認する間もなかった。お返しの敵弾も四方八方から飛んで来た。何発かは当ったようだったが、致命傷になるような命中弾はなかった。