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 我々はそれぞれ高度差を取って横隊に開くと喜界が島の周囲を大きく旋回して滝本大尉と坂本少尉を探した。すでに大きな戦闘は終わっていたが、遠くに点々と敵らしい機影が見えた。たった三機ではまとまった数の敵機に遭遇すれば戦にもならないのは見えていた。それでも高瀬は捜索を止めようとはしなかった。

 我々は島の南西に大きく廻り込んだ。燃料の残量を確認するために捜索や後上方の見張りとともに燃料計にも頻繁に視線を走らせた。スロットルを絞り気味にして燃料を節約しようとしたが、何時的の襲撃を受けるか分からない今の状態で速度を落とし過ぎるのは危険だった。

 燃料の残量が帰投に必要な分を割り込みそうになった時「種子島に降りるぞ。」と言う高瀬の声が聞こえた。種子島ならもうしばらくはこの空域に留まれる計算だった。続いて「回避」と言う島田一飛曹の声が響いた。私は反射的に機体を左に滑らせた。機体の右側を曳光弾の束が流れて行き、その後を追うように銀色の機体が降下して行った。

 後方を確認したが敵の姿も高瀬たちの機影も見えなかった。奇襲を受けてまた憎しみがこみ上げて来た私は発動機を全開にして敵機を追った。敵は急降下で追撃を振り切ると高度を取るために頭を上げるのでそこを狙うつもりだった。アメリカ戦闘機相手の低空での格闘戦なら自信があった。敵機は案の定大きく沈み込んでやっと頭を上げた時にはこちらは絶好の射撃位置につくことが出来た。

 一撃、二撃、敵機は機体を左右に滑らせて逃れようとするが、弾丸は確実に敵機を捉えていた。白煙を吐き出し速度が落ちた敵機を、獲物を弄ぶ猫のように追い詰めていった。爽快な気分だった。敵の操縦士は後を振り返った。そのおびえた顔を見ても最初の時のような動揺はなかった。

 狙いを定めて止めを刺そうとした時、敵は大きくロールを打った。高瀬が得意にしていたあの回避だった。距離が近かったため私は追従することが出来ず、敵機を越えて前に出てしまった。慌てて左に旋回しようとしたところを追い掛け回していた敵機に撃たれた。

 左の外翼に機銃弾が当って補助翼の一部が飛ぶのが見えた。私はそのまま左への旋回を続け、敵機は私の後を右へと抜けて行ってやがて見えなくなった。機体を水平に戻して様子を見たが左の補助翼が三分の一ほど飛んでなくなっている他は取りあえず飛行に差し支えるような損傷はなかった。

 単機になってしまった私は周囲に注意しながら北西に進路を取った。高瀬が言っていたように種子島に向かうつもりだった。スロットルを絞って燃料を節約して高瀬たちを探しながら北上を始めた。単機といっても島影を見ながらの飛行なので航法ミスの心配もなく、はぐれたまま姿の見えない高瀬と島田一飛曹のことがなければ気楽な飛行だった。燃料が底をつきかけたころ遠くに種子島が見えてきた。不意に接近すると敵機と間違われて対空砲火を食う恐れがあったので島の周りを旋回しながらゆっくりと近づいて行った。

「おい、何処をうろついていたんだ。」

 突然無線に高瀬の声が響いた。慌てて周囲を見回すと高瀬と島田一飛曹が後方から近づいて来て両側に並んだ。

「戦闘に感情を持ち込むな。死に損ないに食われたかと思ったぞ。」

 空中で高瀬のお叱りを受けてから我々は種子島の滑走路に滑り込んだ。行き足が止まるとすぐに降りて左翼を調べてみた。十三発の弾痕が認められたが致命的なものは一つもなかった。ただ補助翼の骨が折れてそこから外側が千切れていた。

「会敵さえしなければこのままでも飛べないこともあるまい。油と弾を入れたらすぐに飛ぶぞ。もしも敵に出会ったら俺たちが防ぐから貴様は逃げろ。」

そばに寄ってきた高瀬が翼の損傷部分を見ながらそう言った。

「待ってください。ちょっと時間をもらえばこの程度なら何とかなるでしょう。」

 そう言ったのはこの部隊の整備班長だった。すぐに部下に指示をすると給油や弾丸の補給と同時に補助翼の修理を始めた。班長は破損して飛行不能になった零戦の補助翼を運ばせて器用に継ぎ合わせた。継ぎ足した骨の上にキャンバスを張って何回か動かしてみてから「無理さえしなければこれで大村まで持つでしょう。」と言った。鮮やかな手際だった。ついでに機銃弾の貫通孔までパッチを当てて塞いでくれた。

「お気をつけて。健闘をお祈りします。」

 始動した発動機に負けないくらい大声で言うと班長は我々に向かって敬礼をした。私は持っていた煙草を渡して礼を言うと先に上がった二人に続いて滑走路を蹴った。種子島から約一時間、白昼の強行突破にもかかわらず敵にも遭遇しないで無事に大村に還りついた。そして我々は飛行長から抱きつきそうになるくらいの大歓迎を受けた。

「貴様等まで食われたかと思ったぞ。よく無事で戻ってくれた。」

飛行長はわざわざ滑走路まで出迎えてくれた。

「味方は。相当やられたようですが。滝本隊長は戻ったのですか。」

 飛行長は「うん」と言ったきり俯いて黙り込んでしまった。結局この日の戦闘では滝本隊長、坂本分隊士を始め、自爆、未帰還十六機の損害を出し、撃墜した敵機は高瀬の二機を筆頭にわずか六機に留まった。そして何よりも部隊全員の兄のような存在だった滝本大尉と日中戦争以来の歴戦の搭乗員だった坂本少尉を失ったことは高藤飛曹長を失った時以来の大きな衝撃を搭乗員に与えた。

 三月の初陣以来、常に味方に数倍する敵と激闘を続けてきたが、苦戦は何時ものことながら決定的な敗戦は一度もなかった。もちろんそれはごく限定的な一局面での勝利であって戦局全体を変えるようなものではなかったが、絶望的な戦局を自分たちが支えているという自信と誇りは掛替えのない無形の戦力だった。

 今日の戦闘にしても始めから味方に数倍する敵機と空戦に入り、その後新手の敵機がこれに加わったのだから三十数機で百五十機近い敵機を相手に戦闘をしたことになる。それを考えれば一方的な負け戦とはいえないのだが、誰もが複数の敵機に追いまくられて四苦八苦したのだから感覚的には徹底的にやられたという印象を強くしたもの無理のないことだった。

「おい、武田。」

待機所に引き上げる途中で後から高瀬に呼び止められた。

「戦闘に感情を持ち込むな。ここと思ったら一気にかたをつけろ。だめだと思ったら離脱して次の機会を待て。今日のようなことをしていると命がいくつあっても足りんぞ。」

「見ていたのか、貴様。」

「のんびり見物させてもらうような余裕はなかったが視界に入ったんだ。とにかく次からは気をつけろ。俺たちは命のやり取りをする戦をしているんだ。スポーツの試合をしているわけじゃない。負けたらこの次はない。」

 戦闘では生と死は本当に紙一重だった。私自身初陣でそれを身を以って体験していた。それでも私は憎悪という感情に勝てなかった。人を殺すことで自らの感情を充足させ溜飲を下げるという肌に粟を生ずるような行為を何のためらいもなくやってのけ、挙句の果ては自分が掘った穴に自分が落ち込みそうになるという無様を演じてしまった。

「武田、俺は敵と戦おうとは思わない。敵が攻撃を諦めて帰ってくれればそれでいい。なあ、武田、戦争は殺し合いだ。しかも今の戦争は非戦闘員も巻き込んだ大規模な殺し合いになってしまっている。それは敵も味方もない。かかわった者すべてにとってこの上ない悲劇だ。

 俺達の任務はこの国を、そして国民を殺戮から守ることだ。戦うことじゃない。しかし敵も味方も引かないから仕方なく戦っているが、それは俺達の本意ではない。せめてそのことだけは忘れんように、そして何時か戦争が終わったら本来俺たちが身を置くべき場所を早く見つけてそこに安住したいものだな。」

 海軍航空隊、いや陸海軍に敵を加えてもおそらく屈指の戦闘機乗りたる資格を備えた天才は自らの撃墜数を誇ることもなく寂しそうに呟いた。