高瀬は立ち上がって作業服の襟を直した。
「何だ、もう帰るのか、いいじゃないか、もう少し、いや、明日は俺も出るんだ、明日の朝一緒に出ることにして泊まっていけば良いじゃないか。」
私は高瀬を引き止めようとした。私は高瀬が去ることに心の動揺を感じていた。恋人と離れなければいけない時の女はこんな気持ちになるのではないかとそっと心の隅で考えてみた。
「貴方、まるで恋人を引き止めようとしている女の人みたい。そわそわして。高瀬さん、泊まって差し上げれば良いのに。あんなに貴方に焦がれているのだから。うちの旦那様は。」
小桜が笑いながら高瀬を引き止めようとした。私は小桜の言葉に顔が赤く火照るのを感じた。
「ほら、あんなに顔を赤くして。」
小桜は私を指して笑った。
「今日は水入らずで過ごせよ。俺は明日出撃が決まっている。武田、貴様は待機だろう。明日基地で会おう。」
高瀬は玄関を飛び出して駆け出して行った。高瀬が帰ってから私は早めの湯を使って床を取ってもらった。疲れているとは思わなかったが、昨日から肉体的にも精神的にも負担が大き過ぎて頭の中に霞がかかったようにはっきりとしなかった。そんな私の様子を見て取ったのか、小桜も片付け物を済ませると早めに床に入って来た。私は床に入ってきた小桜を抱きしめた。浴衣を通して小桜の体の感触と匂いが伝わってきた。高瀬に生きて戦うとは言ったものの、自分がそう生き長らえるとは思えなかったし、心のどこかに時が来たら死ななければならないという気持ちが大きくなり始めていた。
「ご無事で。」
小桜が小さく呟くのが聞こえた。
朝はすぐにやって来た。小桜が用意した朝食を掻き込むように喉に流し込むと作業服を着込んで迎えを待った。そして間もなくやって来た側車に身を沈めると部隊へと戻った。小桜は別れ際に「お気をつけて。」と言って微笑んだ。
「君も。もうここは最前線だ。」
私は小桜に微笑み返した。
部隊へ戻るとまず私は指揮所に行って今日の搭乗割を確認した。待機と思っていた私は編成の中に自分の名前を見つけて身の引き締まる思いだった。そのまま飛行長のところに行って搭乗割に加えてもらった礼を言った。
「礼を言わなければならんのはこっちの方だ。もう一日二日、休ませなければいけないかと思っていたのにわざわざ志願してまで戻ってもらえたんだからな。今時、部隊でも屈指の搭乗員を失うのは大きな痛手だ。
だがな、一言だけ言っておくが、間違っても命を粗末にするなよ。軍や作戦のためだけではない。お前たちにはまだまだ生きてしなければならないことが幾らでもある。そのことを忘れるな。」
飛行長は言い終わってしばらく私の顔を見つめていた。こんな混乱の極みの世の中に多くの人たちに心を砕いてもらえる自分が幸せに思えた。そしてそれを感じれば感じるほど、ささやかな生活を静かに営んでいたあの老人と女が慈悲のかけらもなく撃ち砕かれたのが哀れでならなかった。
「本日、本職が部隊の指揮を執る。目標は喜界が島周辺で味方攻撃機を阻止せんと待機する敵戦闘機。本作戦の目的はこれを撃破して味方攻撃隊の進路を開くことにある。出撃は○六三○。ただいまより時計を照合する。」
今日の総指揮官は七一一飛行隊長の滝本大尉だった。部下に声を荒げたことがない温厚な性格ながらどんな苦境にも泰然として動ずることのない豪胆さも合わせ持った滝本大尉は部下の信望も厚く、勇猛果敢、大胆不敵を以って聞こえた山下大尉とは好対照だった。高瀬もこの隊長には一方ならぬ信望を寄せていた。
「沖縄もいよいよいけないようだな。」
待機所に戻った高瀬は声を低めて呟いた。
「あの憲兵曹長はどうしたろう。武運久しく無事だといいが。」
「うん。」
以前横須賀の料亭で大立回りを演じた憲兵曹長のことを思い出して口にしたが、沖縄の第三十二軍が崩壊の危機にある今、どの道無事であろうはずもないことはお互い承知していた。高瀬は朝食の握り飯を頬張りながら空を見上げた。
「陸軍の歩兵や戦車兵に較べれば俺達は天国のようなものだな。食事や宿舎も優遇されて兵器も悪くない。弾だって豊富に持たせてもらえる。穴蔵に篭って飢えや渇きに耐えながら泥に塗れて乏しい弾薬と貧弱な武器で豪雨のような敵の弾幕と戦うこともない。生きて帰れば風呂にも入れるし酒も飲める。女だって抱けるんだ。」
高瀬は湯飲みを取って一気に喉に流し込むと立ち上がった。
「せめて少しでも沖縄の味方のためになるように精一杯戦うか。」
高瀬は乗機に向かって歩き出した。
戦場までは何度も通い慣れた空だった。喜界が島の西に敵戦闘機が大きく広がって網を張っているのも普段と何も変わらなかった。滝本大尉は断雲を利用して味方を敵の後方へとうまく導いて行った。そして主力を率いて後方の一番離れた敵編隊に急降下で攻撃をかけた。見事な後上方からの奇襲攻撃だった。
多くの敵機が味方の攻撃で燃え上がって墜ちて行った。ここまでは勝利の女神は味方に微笑んでいた。不運だったのは我々の攻撃がたまたま敵の交代の時期に当ってしまったことだった。交代のために飛んで来た新手の敵編隊が戦闘に加わって形勢は完全に逆転した。単機の味方が複数の敵に追われて四苦八苦する様子があちこちで見て取れた。戦場上空の制空に当っていた我々の小隊もこの新手の敵の向かっていったが、たった八機では形勢を逆転するのは至難の業だった。
激しい戦闘の中、味方はすぐに散り散りになって圧倒的に優勢な敵と取っ組み合いのような戦闘を続けた。戦闘途中、被弾のためか脚が途中まで開いてしまい著しく運動性を制限された機体を操って坂本少尉機に付き添われて戦場を退避しようとする滝本大尉機を認めたが、二人を見たのはこれが最後になってしまった。
戦闘は十五分ほどで終わり、追撃してくる敵を振り切った私は近くにいた味方機を伴って東へ進路を取った。この戦闘で私は敵機一機を撃墜していた。何時もは一撃で敵機を破損させれば撃墜を確認できなくても離脱していたが、今回は敵機が爆発して四散するまで撃ち続けた。そのために救援に来た敵に撃たれて何発か被弾したが、そんなことは構わなかった。
私は爆発した機体から放り出された敵の操縦士が独楽のように回りながら海面に向かって落ちていくのを見つめ続けていた。その時の敵は私にとっては人間でもなんでもなく、ただ燃えさかる憎悪の炎を吐きつける対象でしかなかった。帰投するため東に頭を向けた私には味方のうち何機がこの戦闘を生き残っているのか全く分からなかった。
「三小隊、三小隊、喜界が島の東方高度四千に集合せよ。」
一息ついた私の耳に無線に高瀬の声が入ってきた。付き添っていた味方機に「帰れ。」と命じておいて私はもう一度戦場の方向に引き返した。数分も飛ぶと遠くに二機の紫電が見えてきた。バンクしながら近づいていくと「貴様、生きていたか。せっかくだがもう一度地獄に戻ってもらうぞ。隊長機が行方不明だ。」と言う高瀬の声が聞こえた。
「隊長機は被弾して坂本機とともに戦闘空域を離脱した。」
私は高瀬に応じた。
「燃料一杯まで捜索を続行する。上空目刺しに注意しろ。」
島田機が接近してきて『上空をよく見張れ。』というように上を指差した。P五一が活動中のようだった。私は了解の意味で島田一飛曹に拳を突き上げて見せた。