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「貴様の言うことは間違ってはいない。まさにそのとおりだ。それに俺はこの状況をそんなに達観しているわけではない。俺にも煮えくり返るような腹立たしさはある。体当たりでも何でもして敵を木っ端微塵に粉砕してやろうと思うことも一度や二度ではない。だがな、考えてみろ。体当たりで葬れるのはたったの一機、爆弾を抱えて敵の艦船に体当たりをしても大型艦なら撃沈させることは難しい。せいぜい数日、戦線から後退させることが出来るくらいだ。

 俺はな、敵と戦おうとは思っていない。この国に侵入してくる敵から国と国民を守ろうとしているだけだ。考えてみろ、貴様が最初の出撃で体当たりをして命を捨てて敵を粉砕しようとしてもたった一機の敵を粉砕することが出来ただけだ。しかし貴様は生きて戦った。そして十数機の敵機を撃墜した。その敵機が国や国民に与えたかもしれない被害を考えてみろ。貴様は立派に負託された義務を果たしているじゃないか。

 こんな無意味な戦いを国民に苦痛を負わせて続けていくのは俺にとっては耐えがたい苦痛だ。しかしその苦痛に耐えて、今この国と国民を守り続けるのが我々に課せられた義務ではないのか。

 だがな、我々がどう足掻いてももうこの国を我々の力で守りきることは不可能だ。貴様が体当たりをしてでもこの国と国民を守るというのならそれも軍人としての見識だろう。俺はもうそれを止めようとはせん。だがな、俺は生きてこの国とこの国民を守る。戦が続く限り生きて守る。それが俺の信念だ。」

「戦うのか、貴様は戦い続けるのか。」

「戦うのではない。守るんだ。俺は敵の撃滅などということは考えたことはない。この国に侵入して破壊と殺戮を行おうとする者を追い払うだけで戦うつもりはない。敵が戦いを挑んでこない限り俺は敵を追撃しようとは思わない。我々の姿を見て敵が回れ右をしてくれるといいのだが。

 武田、俺はな、敵を憎んでいるわけではない。戦うことを憎んでいるんだ。兵器の破壊力が飛躍的に向上した状況での総力戦では、本当の敵は実際に戦っている相手ではなく、戦争そのものだ。

 貴様、何時か次官の前で言っていたじゃないか。軍の本来の目的は戦わないことだと。軍が存在する意義はまさにそこにあると思う。軍自体の存在によって戦争を抑止すること、相互に侵攻意図を抑止すること、それが軍隊の唯一の存在目的だ。戦争は外交の一手段というのはただこの意味において可とすべきだと俺はそう思う。軍が戦闘行為を行うのは唯一まさに急迫不正の侵害を排除する場合のみに限定すべきだ。

 この戦争は間もなく日本の敗北で決着するだろう。しかしこれからも戦争は起こるだろうし、そのために多くの命が失われ、もっと多くの人たちが塗炭の苦しみを味わうことになるだろう。それは人の本質が闘争に向いているからかもしれない。実際の戦争だけでなく、政治、経済、文化、すべての分野で闘争が続いているし、身近な生活の中でも我々は生まれたときから否が応でもそうした闘争の中に身を置いているのかも知れない。

 国と国が総力を注ぎ込んで戦い続けている今のこの状況の中で、個人が何を言っても何の足しにもならんが、せめてこの戦争の愚かしさに早く気がついてくれるといいのだが。誰でも戦争を、そして戦っている敵を憎むのは自然な感情だと思う。うんと憎めば良い。

 しかし、俺達には今戦うべき義務とともにこの戦争の実態を正しく後世に伝えるべき責任もある。憎悪という感情に囚われて現実を見失ってはいけない。それは現に慎むべきだな。戦いの真実を冷徹な目で見つめるのは辛く、悲しいことかもしれないけどなあ。」

高瀬は悲しそうな顔をして俯いた。

『この男は目の前で愛する恋人を敵に撃ち砕かれて殺された。その無念さはどれほどだったろう。それでも戦争を冷静に見つめようとしている。日本全体が狂気に取り付かれたように破滅の淵に向かって傾れを打っている時に。

 海軍は特攻用の機材が不足して、日中戦争当時の九六艦戦や赤とんぼといわれている中練、機上練習機の白菊までつぎ込んでいる。未熟な搭乗員が操縦する二昔も前の戦闘機や二枚羽の練習機など数合わせの道具には使えても用兵側の虚栄心を満足させるだけで戦闘の役には立ちはしない。

 戦略や戦術のプロであるべき職業軍人がその場の感情に囚われて冷静な判断が出来なくなっている時に、耐え切れないほどの悲しみや苦しみを背負い込んで、それでも現実を冷静に正視しようと努めている。』

私は高瀬を見た。高瀬は私に向かって顔を上げた。

「さっきも言ったとおり、貴様が命を盾にこの国を守ろうというのならそれはそれで構わない。それも見識だろう。しかし今の激烈な戦闘の状況を考えれば、うちの部隊も遠からず皆命を落とすだろう。俺もこの戦争を生き残れるとは思っていない。

 何度も言ったが、戦いが終わるまで、いや、命が続く限り生きて俺と一緒にこの国と国民を守って欲しい。死ぬことが唯一の正義のようなこの時代、こんなことは貴様にしか言えない。俺は貴様にそれだけを望みたい。」

 高瀬の目が私を見つめていた。悲しそうな目の色だったが、私は高瀬に見つめられて真綿にくるまれているような暖かさを感じていた。そして何時の間にか黙って高瀬に向かって頷いていた。高瀬も黙って私に頷き返した。 

 私は外に出て大きく呼吸すると空を見上げた。初夏の清んだ空が広がっていた。空のように自分の心が澄み渡っていたわけではなかったが、とにかく今自分に課せられた責任を果たすことに力を尽くすこと以外には何も思いつかなかった。

 私は家に入ると電話を取った。応対に出た通信隊の隊員に官職氏名を伝えると飛行長に取り次ぐように言った。

「お待ちください。お繋ぎします。」

しばらくすると呼び出し音が聞こえて程なく飛行長が電話に出た。

「武田中尉です。お忙しいところを大変申し訳ありません。ご命令どおり休暇をいただいてのんびりさせていただいております。ところでお願いがあります。体の方はなんともありません。今日一日はゆっくり休ませていただきますので明日からの搭乗割に加えていただきたいのです。お願いします。」

 私は言いたいことを一気にしゃべった。飛行長は黙って聞いていたが、私の言葉が止まるとゆっくりと話し出した。

「軍医長から話は聞いた。貴様がそういうのならこちらも搭乗員のやり繰りは火の車なんだ。早速明日から飛んでもらおう。明日は○五○○に迎えをやる。それで構わんのだな。」

「構いません。ご配慮ありがとうございます。」

私は一言礼を言うと受話器を置いた。そして小桜の方を振り向くと「帰った。」と一言言った。

「ご無事でお帰りなさい。」

小桜は両手をついて頭を下げた。

「心配をかけた。無事に戻った。明日は午前五時に出かける。よろしく支度を頼む。」

小桜は微笑んで頷いた。

 部隊に戻ると言い張る高瀬を無理に引き止めて三人で早めの夕食を取った。三人が三人とも口数が少なく黙りがちの夕食になったが、給仕をしていた小桜が突然口を開いた。

「貴方、分かっていてくださいますよね。私が何も言わなくても。どうして私がこんなことをしているのか。」

 私は突然小桜に問いかけられて高瀬の顔を見た。杯を口に運ぼうとしていた高瀬は口の手前で杯を持った手を止めて私を見返した。

「自分なりに分かっているつもりだけれど、本当のところはお前に直接聞いてみないと分からんかもしれない。」

私の答えに高瀬が吹き出した。

「何ともばか正直な男だなあ、貴様も。確かにそのとおりだがもう少し答え方があるだろう。」

「しかし俺は君の考えていることを類推することは出来るが、本当に何を考えているかは君にしか分からないだろう。まあ、それはそれでいい。先の見えないこの世の中で、結果がどうあれ、君は君なりに前を向いて生きようとしているのだろう。

 そのことは理解しているつもりだ。それよりも一つ頼みがある。もしも君がこの戦争に生き残ったら、俺達が戦争をどう考えて何のために戦っていたのか、この時代にどんな感情を抱いて生きていたのか、それを次の時代に伝えて欲しい。」

「分かっています。お二人が生きてこの時代を通り抜けたら、女たちが銃後で戦争をどう受け止めて、どんな思いで生きていたのか、それを伝えてください。」

 私は小桜にゆっくりと頷いた。その時私は小桜がどうしてこんなことを始めたのか、やっと少しばかり理解できたように感じた。