大体ブラのカップの大きさからして分からない。AだのBだのCだのと言うが、記号が後に行けば行くほどカップが大きくなると言うことは一般的な知識としては知っているもののそれがどのくらいの大きさなのか自分の胸についているのがどれに該当するのかよく分からなかった。
しかもカップの大きさに加えて紐の長さがややこしさに拍車をかけていた。佐山芳恵の体を引き継いでから元々佐山芳恵が買い込んでいたもののサイズを見て適当に買っていたが、こんなものもS、M、L、LL、XLと言うように簡略化してしまえば僕のようなにわか女には大変ありがたい。
その後僕たちは買い物に飽きるどころかさらに化粧品を見に行った。しかしここで僕たちという言い方をすることは大いに語弊がある。クレヨンと女土方はと言うべきで僕は連れて行かれたと言った方が正確な表現だろう。本当はこの辺でパソコンショップか書店にでも逃走したかったのだが二人にがっちりと身柄を確保されていて逃げ出す隙がなかった。
化粧品もにわか女にはこれまた複雑怪奇だ。顔の色を均一にそして見栄えよくごまかすためのファンデーション、男にアピールするために唇の存在を思い切り強調出来るよう色をつけるリップスティック、本来平面的な日本人の眼をはっきりと際立たせるためのアイラインやアイシャドウ、眉が伸び過ぎて必要以上に存在を誇示しないよう刈り込んだ後、より良いバランスを求めて偽の眉を書き込む色鉛筆のようなやつ、睫毛が長くすらりと伸びているように偽装するためのマスカラ、爪に塗りたくって艶や色彩を与えて手を美しく飾るためのマニキュア、その他にも肌に潤いを与えて生き生きと見せるためと使用する側において信じて疑わないそれらしい色に着色された液状又はゲル状の乳液だの化粧液だの何だかんだ多種多様でそれに加えて車の工具のような道具まである。
目立たせるか見つかり難くするか目的は正反対だが、事実を偽装して隠蔽すると言うことに関しては軍隊が使用する偽装や迷彩の類と同一のように思う。それにしてもこれほど多種多様な化粧品の分類や用途を覚え込んでしかも電車の中でまで一心不乱に化粧に励むほどの労力と時間を費やすのならいっそのこと顔に貼り付けるマスクでも作ってそれを貼り付けてしまった方が簡単で効果的じゃないだろうか。
現代の科学を総動員すれば扱い易くてちょっとやそっとでは剥がれない人工皮膚のようなものを造るのは難しいことではないだろう。化粧では目鼻立ちなど基本的な構造は覆い隠しようもないが、これなら顔の輪郭以外は土台から不具合を修正出来る。またその日の気分に応じて色々な顔を選んで外出することが出来、バラエティに富んで気分も変わるだろう。でもこれって何となく福笑いに通じるものがありそうだな。
それに見てくれだけは世の中美人やかわいい女ばかりになってしまうかもしれないが、二人きりになってマスクを剥がしたら背骨が砕けるくらい驚いたなんてことになると男も困るだろうから赤外線などを使用してマスクの下にある本当の顔を探知して表示するハイテク機器などが爆発的に売れるかもしれない。大体化粧なんて化けて粧うことなんだから化けるためのマスクを造っても支障はないだろう。
今度商品企画室が発足したら一番に提案してやろうか。でもこの発想って紛争当事国双方に武器を売りつける死の商人に通じるものがあるかもしれない。
「あなたって本当に化粧には無頓着な人ね。でも少しは気を使った方がいいわよ。もうお互いに若くはないんだから、ね。」
くだらないことを考えていたら突然女土方に声をかけられて飛び上がるほど驚いてしまった。
「こんなこと言わなくても分かっているんでしょうけど季節によって化粧品も使い分けるのよ。ちゃんとしなきゃだめよ。」
今度は女土方がてきぱきと化粧品を選んで僕に押し付けた。
「これじゃあ足りないけどさっきの指輪のお礼よ。」
女土方は何種類かの化粧品の入った袋を僕に手渡したが、僕に何かくれるのならどちらかと言えば化粧品よりも現金、貴金属、有価証券の類が良いのだが。こうして買い物が一段落する頃には昼の時間を大きく過ぎていた。そして食事をどこでするかでまたクレヨンがごちゃごちゃ言い出したので面倒臭いから場所はこいつに任せることにした。飯を食ったら早く帰ろう。この上こいつ等につき合っていたら何時まで引きずり回されるか分かったものじゃない。でもせっかく外に出たのだから書店くらいは寄りたかった。
「その前にちょっと書店に寄らせて。」
僕が頼むと二人ともすぐに承諾してくれたが、クレヨンはせっかく買い物に来たのにどうして書店などに行きたがるのか分からないという顔をしていた。それでも今回はこっちが主導権を握る番だとばかりにさっさと書店に向かって歩き出した。これで今までの敵を取ってやろうと思ったが、それでもそこは男の悲しさ、書店では目的の書棚をさっさと見て歩き興味のある本を抜き出してものの三十分もしないうちに僕の買い物は終わってしまった。
もっとも一人なら優に一時間くらいは書店で時間を潰すことは出来るのだが、興味のない人間を無理に止めておくのは忍びなかった。この辺りが男の限界なんだろう。書店を出ると女土方もクレヨンも書店の袋を提げていたから何らかの本を買ったようだった。ただクレヨンが買ったのはページの大部分を写真が占めている雑誌のようだった。
僕たちは遅い昼食を取るためにそこから歩いてクレヨンの知っているという店に行った。そこがどんな店かは大方想像がついた。店に着くとやはり庶民は気後れして仰け反って後ずさりするような高級イタリア料理店だったが、ここでもクレヨンは店長の出迎えを受けても臆することもなく堂々としていた。そして僕たち三人は奥まったところにある個室に通されてそれぞれにメニューが手渡された。
そこに書いてあるメニューは特に仰け反りそうな珍奇なものはなかったが、脇に書かれている値段は十分に仰け反る価値があるものだった。そこには我々が買い物ついでに立ち寄った食物屋では未来永劫注文することはないだろうと思われるような値段が書かれていた。どうせ僕等が払うわけではないのでそんな値段を見ても仰け反りもしないで好きな物を注文してやったが、正直どんな料理が出て来ても自分の財布で購うのなら決して頼みたくはない値段だった。
頼んだ料理が出て来るまでの間、クレヨンは何だか訳の分からないことをしゃべっていたが専ら聞き役は女土方が担当していたので僕はさっき買い込んだ本を眺めていた。
「ねえ、佐山さんも聞いてよ。」
クレヨンが突然非難めいたことを口走った。
『そんな訳の分からないお前の話なんか聞いてどうするんだ。時間の無駄だろう。』
関係改善が進行しつつある今この状況でそんなことを言うわけにもいかなかったし、負担をみんな女土方に押し付けるのも心苦しかったので仕方なしに本を置いて顔をクレヨンの方に向けた。それでクレヨンは満足したように微笑むとまた今日買い込んだ品物の話を始めた。
話の内容に知性を感じないのは相変わらずだが確かにクレヨンは素直に、そして明るくなった。僕たちとクレヨンがお互いに理解し合えるかどうかはともかく少なくとも自分の方を向いてくれる人間が出来たことがこいつを明るく素直にさせたのかもしれない。何とか広告機構とやらでちょっと危ない目をしたお姉さんが『誰かがお前が大切だと言ってくれればそれだけで生きられる。』と言っているが、確かに自分は一人じゃないということを実感することは人間にとってずい分勇気づけられることなのかも知れない。僕たちは運ばれて来た高級イタリア料理を堪能してからこれもまた下駄代わりと言われている気の毒な国産高級乗用車で帰路についた。
終わってみれば今日は僕が佐山芳恵になって以来もっとも高額消費をした日になるが佐山芳恵になってから僕が働いて貯めた分で十分にまかなえる額だし、女土方と同居するようになって家計も大幅黒字に転じたのでたまにはいいだろう。