今日は倶楽部でゆっくり休んでもらおう。それから軍医に話してある。倶楽部に行く前に軍医のところによってちょっと診てもらって行け。これは俺からの命令だ。」
「飛行長、午後の登場割に私を加えてください。待機任務でもかまいません。このままのんびりと体を休めていたら死んでいった国民に顔向けできません。」
体の中で怒りや憎しみといった類の感情が音を立てんばかりに燃えさかっているようだった。敵と戦えるなら体当たりだろうと何だろうとそしてそれで命を落とそうとそんなことはかまわなかった。とにかく噛り付いても敵を殺してやりたかった。
「武田、貴様の気持ちは分からんでもない。先日といい、今回といい、目の前で無抵抗の老人や女性、子供を殺され、何らなす術もなかった貴様の無念さは思うに余りある。しかし今貴様の思いをかなえてやる訳にはいかない。
いいか、よく聞け。軍は軍の意思に従って作戦を行っている。休養を命ぜられた貴様は軍の作戦の一部として休養を命ぜられたのであってのんびりと惰眠をむさぼらせるわけではない。言わば休養も作戦の一環だと心得よ。
感情に囚われて行動しようとすると客観的に状況を捉えて的確な判断を下すことが難しくなる。日本人はその傾向が強いようだ。貴様は海軍にとって貴重な戦力だ。その戦力をより有効に活用するために休養を命じるんだ。確かに部隊は激しい戦闘で人員機材ともに不足して貴様のような優秀な搭乗員は喉から手が出るほど欲しいんだ。
しかし、軍隊は貴様が考えるよりもずっと冷酷だ。貴様のような優秀な搭乗員は完全に命が擦り切れるまでとことん使い切ることを考える。戦わせて戦わせて最後の最後まで使い切ることを考えている。だから休ませるのだ。これは命令だ、軍医の診察を受けてから倶楽部で休養せよ。任務に就くことは罷りならん。」
海軍に入って二年、俄か雇いの予備士官にも命令は絶対という観念は精神に深く染み込んでいた。私は黙って敬礼をすると飛行長の部屋を辞して医務室の戸を叩いた。
「やあ、ずい分しばらくでした。あれからいかがですか。聞きましたよ、一日中海を泳いだとか。とにかく上着を脱いでそこに座ってください。」
何時か頭部に敵弾を受けた時に治療してくれた若い軍医中尉があの時と変わらず飄々とした調子で私に声をかけた。
「どこも悪かありませんよ。早く済ませてください。」
上着を剥ぎ取るように脱ぎ捨てると私は寝台に腰を下ろした。
「おや、その上着についているのは血液ですね。何処か怪我をされたんですか。大きな傷は見えないようだけど。」
軍医は目ざとく私の上着に付着した血液を見つけた。
「私を海から拾い上げて世話をしてくれた老人と女性の血です。今朝早く敵機の機銃掃射で殺されました。」
「そうだったんですか。非戦闘員をむごいことをしますね、敵も。しかし戦争って非情なくらい冷徹な合理性に基づいてやるものでしょう。そういう意味では情緒的な日本人は戦争には向いていないのかもしれませんね。」
軍医はそれ以上何も言わずに私の体に聴診器を当てたり叩いたりしていたが、最後に脈を取り終わると
「特に異常はないようですね。とりあえず疲労回復のためにブドウ糖とビタミンでも注射をしておきましょう。」と言って私の腕に注射針を刺した。
「ありがとうございました。」
一言礼を言ってから立ち上がろうとすると軍医は私を呼び止めた。
「ゆっくり休めるといいんですがね、幾らなんでも今はそうもいかないだろうし。せめて今夜一晩くらい戦の匂いのしないところでぐっすりと眠ってください。貴方の心も体も休息を必要としています。戦って命を落とすことはあるでしょうし、今の状況と我々の立場を考えれば仕方がないことかもしれないが、命を捨てるようなことをしてはいけない。いいですね、これは医者としての忠告です。」
私は黙って頷くと部屋を出た。外には司令部差し回しの従兵が雑嚢を下げて待っていた。
「飛行長から飛行服と作業服の着替えを預かっています。」
「ありがとう。」
手を出して受け取ろうとすると従兵は袋を肩に担いだ。
「倶楽部にお送りするよう飛行長から言われております。どうぞ、側車を用意してあります。」
私はそのまま外に出ると側車に腰を下ろした。従兵は黙って単車に跨ると車を走らせた。倶楽部は基地から十分ばかりのところにある大きな農家だった。飛行長から指示が飛んだのか、倶楽部とは言っても人気もなく静まり返っていた。敬礼をして引き返そうとする従兵を待たせて小桜を呼ぶと一升瓶を持って来させて礼のつもりで手渡した。
「ご苦労様でした。」
小桜は私を笑顔で迎えた。心が和むはずの笑顔だったが私の怒りは容易には収まらなかった。
「着替えるから下着を出せ。」
「はい。」
叩きつけるような私の言葉にも小桜は笑顔で応じた。
「こんなところでのんびりと休んではおれない。基地に戻る。」
私は小桜を振り返りもしないで玄関へと向かって大股で歩いた。
「貴様がそんなことを言うから俺までこんなところで謹慎を命じられるんだ。第一、智恵さんは貴様の身を按じて一睡もしていないんだ。無事に帰ったことくらい笑顔で報告してやったらどうだ。」
玄関の奥から高瀬の声が聞こえた。私は玄関を上がると広間に雑嚢を放り投げた。後を追うように部屋に上がってきた小桜が下着を持ってきたのをひったくるように受け取ると雑嚢から作業服を引き出して着替えを済ませると血の染み付いた作業服を畳んで丁寧に床の間に置いた。
そして外に出て家の脇に積んであった薪を抱えて庭の真ん中に積み上げると家の中に取って返して血の染み付いた作業服を取って薪の上に置いた。高瀬と小桜は縁側に出て私を見下ろしていた。私は薪に火を点けるとあの老人と女性に敬礼で別れを告げた。
「何方か亡くなったんですね。」
小桜が私の後でそっと呟いた。何時の間にか私の脇に立った高瀬が炎に向かって敬礼をした。
「民間人か。亡くなったのは。」
高瀬が私に問い掛けた。
「やり切れん。何故こんなに非戦闘員が殺されなければいけないんだ。」
私は燃え上がる火を見ていた。小さな炎の中であの二人の血が染み付いた作業服が燃えていた。その火が消えるのを待って残った灰を丁寧に集めて庭の隅にある欅の根元に埋めた。
「なあ、俺は何事も合理的にやってのけるアメリカに敬意を払っていたし憧れも持っていた。憎しみなんかかけらも感じなかった。それなのに今は憎しみしか感じない。どうしてなんだ、どうして憎み合うんだ。」
「戦うからだよ。戦って殺し合うから憎しみが生まれるんだ。誰でも家族や仲間を殺されれば憎しみを感じるだろう。憎しみという感情は始末が悪い。子から孫へと代々引き継がれていく。一度生まれた憎しみは消えることがない。」
「しかし俺達は戦争をしている。俺は貴様のように老人や婦女子を殺し、街を破壊し尽くす行為を『それが総力戦だ。それが戦争だ。』と達観は出来ない。ただ浜辺で漁に出る支度をしていた老人と女性を無残に撃ち殺した敵を八つ裂きにして焼き尽くしてやりたいほど憎いんだ。今すぐにでも戦闘に出て行って体当たりしてでも叩き潰してやりたい。もう自分の命などどうなってもかまうものか。そうでもなければ俺達は国民に顔向けが出来ん。
国のための戦争だ、我慢しろ、勝てば楽になる。すべてを戦争のために捧げろ。軍部と政府は国民にそう言ってこの戦争に突入した。端から勝てる見込みのないこの戦争に。そしてこのざまだ。それなのにまだ軍は国民を守ろうともしないで軍の面子のためだけに戦争を継続して国民に言い知れない苦汁を舐めさせ続けている。
俺達がどのような状況で軍に名を連ねたにせよ、そして今の俺達がどのような立場にあるにせよ、俺達は国民に対して責任がある。国民が殺されているのにたかが一日海に浸かっていたからと言ってのんびり休暇などと言っては、一体どの面を下げて国民に向き合えばいいのか。死んでいった人たちになんと言って詫びればいいのか。今度出撃したら俺はもう生きて帰ろうとは思わん。
高瀬、貴様は『生きろ、生きて戦え。』と言う。しかしお前に聞きたい。俺の言っていることは間違っているか。」