「横になればいいよ、疲れたでしょう。」
食事が終わると女が床を取ってくれた。礼を言って床に横になると一日中海に浸かっていた疲れが噴き出した。しばらくうとうととまどろんでいると肩を叩かれて目を覚ました。女が笑顔で私を覗き込んでいた。
「うつ伏せになって。少し揉んであげるよ。」
女に言われるままに体を回してうつ伏せになった。女が私の体に跨るとすぐに私は背中に心地よい痛みを伴った刺激を感じた。
「何て堅い背中なの。じいちゃんよりもずっと堅い。」
女は驚いたような声を上げた。考えてみれば九州に進出してから二月近くになるが、昼間は敵との戦闘に神経を研ぎ澄ませて夜はその高ぶった神経を鎮めるために酒を飲む毎日で、のびのびと体や心を休めることなどなかった。
戦争をしているのだし、非戦闘員も穏やかに心や体を休める機会などあるはずもないのだが、それにしてもいくら若いといっても長期間極度の緊張を強いることが精神や肉体に良いはずもなく、普段意識はしていないものの緊張の緩むこんな機会には蓄積された疲労の重さを感じないわけにはいかなかった。
『俺達だってこんなにぼろぼろになるまで体も心もすり減らして戦っているんだ。命を捨てても自分の義務を果たそうと力を尽くしているんだ。命が惜しいわけではない。しかし俄か雇いでも軍人なんだから死んでも当然なのか。俺達も人間なんだ。死ぬのは怖いし、人を殺せば心が痛むんだ。俺はアメリカ人に何の恨みもなかった。返って彼等の合理的な考え方には敬服していたくらいだ。それがどうしてお互いに憎み合い殺し合わなければいけないようなことになったんだ。』
人としての思い、軍人という立場ゆえの義務、いろいろな思いが頭を駆け巡った。そしてそのうちにつかの間の心地良さに身を任せてすっかり寝込んでしまった私は、翌朝まだ暗いうちから起き出したのだろう、忙しそうに立ち働く二人の立てる物音で目を覚ました。起き上がって辺りを見回すと枕元に飛行服と作業服が畳んで置かれていた。私は作業服だけを身に着けると外に出てみた。二人は漁具の整理や干物作りと動き回っていた。
「ああ、起きたのね、まだゆっくりと休んでいればいいのに。」
女が私に声をかけた。
「朝の仕事が済んだら船で村まで送るって。中に入って休んでいて。」
「何か出来ることがあったら手伝おう。」
「いいのよ、兵隊さんは戦うことが仕事なんだから、今は休んでいて。」
手伝うと言っても何をするあてもなかった私は女の言葉に従って腰を下ろすと煙草を探ったが、そんなものがあるはずもなかった。
「おい、幸恵、煙草盆を出してやれ。」
私が煙草を探っているのに気がついた男は女に呼びかけた。女は小屋の中に戻ると煙草盆に火の点いた炭の欠片を載せて私に差し出した。
「長い煙管はじいちゃんの使っているやつだから、短い方を使うといい。私のだけどたまにしか使わないから。」
私は一つまみの煙草の葉を取ると煙管に詰めて火を点けた。ちょっと煙かったが昨日の朝から煙草を吸っていない私にとっては刺激的な香りだった。女がたまに使っているという煙管を眺めては吹かしているうちに二人は浜の方へと歩いて行った。その後ろ姿が砂の丘に隠れて見えなくなる頃、私は低くこもった動物のうなり声のような爆音を聞いた。それが味方機のものでないことはすぐに知れた。
「近い。PBYか。」
私は煙管を投げ捨てると二人が歩いて行った浜の方へ走り出した。敵機は昨日撃墜された搭乗員の再捜索に飛んできたのか、海面を這うように陸地へと向かって飛んで来た。
「危ない、伏せろ。」
私は大声で叫びながら二人の方へ走っていったが、二人は自分達に向かって飛んで来る敵機を立ったまま見上げていた。
「敵だ、逃げろ、危ない。」
私は大声で叫びながら二人に向かって走った。私の頭の中にあの時の河原の光景が甦った。敵機は二人の上で大きく機体を傾けて旋回すると背中に背負った銃座から機銃弾を吐き出した。私は反射的に窪地に身を伏せた。あの時と同じように武器も何も持たない今の私に出来ることは何もなかった。着弾の砂煙が上がると同時に二人は指で弾かれたこけしのように砂浜に転がった。敵機はそのまま海へと機首を向けると飛び去っていった。
私は立ち上がって二人のところへと駆け寄った。そして砂の上に倒れている二人を前にして立ち竦んだ。二人とも体中を大口径の機銃弾で撃ち砕かれ、血と砂にまみれて死んでいた。女はあの時と同じように腹部を機銃弾で破られて内臓が飛び出していた。
私は周囲を見回した。そして干してある網の下に置かれた筵を見つけてそれを取ると二人のそばに敷いた。先に男の死体を抱え上げて筵の上に寝かせた。その隣にもう一枚の筵を広げると女の脇に跪いた。そして傷口からはみ出した内臓を両手でそっと持ち上げると体の中へと戻してやった。
砂にまみれたその肉片はまだ温かかった。女の体を抱き上げると体のあちこちから血が流れ出して私の作業服を赤く染めた。まだ暖かさを残した血液の粘りつくような重さを感じながら私は女の死体を筵の上に横たえた。浜に駆けつけてきた部落の人たちには何も言わずに私は小屋から飛行服を取って浜に戻った。
「大村の海軍剣部隊の武田中尉です。お気の毒でした。後をよろしく願います。部隊に戻りますので駐在のある村までこの方たちの船をお借りします。」
私は二人を取り囲んで立ち尽くしている部落の人たちにそれだけを言うと舫綱を解いて小船に乗り込んだ。海に出るのは危険が大きかった。しかし、私は一刻も早く部隊へ戻りたかった。いや、敵と戦いたかった。今まで一度も感じたことのない激しい怒りが波のように体の中をうねっていた。
『総力戦というのは敵が二度と立ち上がれなくなるまで徹底的に殲滅することだ。女も子供も関係ない。女が撃った弾でも当れば死ぬことに変わりはないし、子供だって成長すれば立派な戦士だ。』
あの時高瀬が言っていたことを何度も頭の中で繰り返して考えていたが、治まるどころか怒りは強くなるばかりだった。
『戦うにしても最低のルールがある。こんなことをするやつらは許せん。』
村に着くまで私はずっとそう考え続けていた。駐在で警察電話を借りて部隊に電話を入れると一時間ほどで側車が迎えに来た。部隊に戻って飛行長に事の顛末を報告すると飛行長は目を伏せた。