機体に取り付くために走っている間、今日の任務が終わったら高瀬と一緒に小桜を訪ねることになっていたのを思い出した。しかしそのことも操縦席に座ると頭の中から消えてしまった。指揮所からの敵情報告では敵機の編隊は九州西方洋上から東進中ということだった。
『それなら高度を取って待ち構える時間は十分にある。』
私は頭の中でこれから始まる戦闘を描きながら離陸して高度を取り始めた。左に旋回しながら後ろを確認すると列機は一機も上がっていなかった。そして滑走路の端から赤い発煙筒の煙が上がっているのが見えた。
「発進中止か。」
私は操縦席で大声を出した。
『敵は間近にいる。』
私はせわしく周囲に目を配った。まだ機体は速度がついていなかった。高藤上飛曹のように今狙われたらひとたまりもなかった。私はスロットルを全開にして機速を稼ぎながら上昇していった。同時に周囲の見張りも忘れなかった。
高度が千メートルを超えた辺りで反航する敵編隊を発見した。距離が開いているので発見されて追われても何とか逃げ切れそうだと胸を撫で下ろして正面を向き直ると、一時の方向から敵機四機がまっしぐらにこちらに向かって降下してくるのを発見した。すでに敵機はこちらを発見しているようで離陸直後単機で高度を取ろうとしている自分を手ごろな獲物とでも思ったのか、被さるように降下してきた。
ここで反転したり降下して逃げようとしたりすれば敵機に狙い撃ちされることは間違いなかった。敵の機銃は初速が速く弾道が低伸するので正面から撃ち合ってはいけないと高瀬に言われていたし、自分自身それを何度も体験していたのだが、ここは相撃ちを覚悟で正面から撃ち合って抜ける以外に方法はなかった。おそらくここで斃れるだろうと思ったが、今更死ぬことに恐怖は全く感じなかった。
『死出の花道に一機でも多く道連れにしてやろう。』
私は腹を据えると私は敵の先頭機に照準をつけた。敵が射撃を開始したのと同時に、ちょっと距離が遠いと思ったが、こちらも撃ち始めた。弾道が下がることを考慮に入れて敵機の少し上を狙って撃ち出した二十ミリ機関砲弾がうまく敵を捉えた瞬間、敵機は折れるように頭を下げたかと思うと爆発して飛び散った。次にその後の機体に照準をつけて射撃を続けたが、その頃には私の機体も被弾が多くなり、敵弾がジュラルミンの外皮を引き裂いて機体の中を荒れ狂って破壊した。
二機目に爆発が起こって炎を噴き出したのと同時に私の紫電も発動機から白煙を吐き、翼の付け根から漏れ出した燃料が白い尾を引き始めた。後の二機にはもう照準をつけている暇はなかった。ただ機銃を撃ちまくりながらお互いにすれ違った。敵機が飛ぶように後ろに消えると同時に私の機体も翼の付け根から火を噴き出した。
高度は千から急速に下がりつつあった。私は大村湾の海上に出ていることを確認してから機体を半回転させて背面にすると風防を開いてベルトを外し、床を蹴って機外へと飛び出した。飛び出した時に開傘索が自動的に引かれているので、巨人の手で引き上げられるような大きなショックがあってすぐに傘が開いた。
主を失った紫電は黒い煙を長く引きながら海面へと落ちて行き、高い水煙と炎を上げて海面に激突して姿を消した。私はかなり沖へ流されてから着水した。素早く落下傘を外して体が自由になると、後は仰向けになって流れに身を任せて空の上を敵の編隊が基地の方に向かって飛んで行くのをぼんやりと眺めていた。しばらくすると今度は三々五々西に向かって引き上げていく敵機が私の頭上を通り過ぎていった。激しい空戦が戦われたのか、敵機の中には白煙を引きながら徐々に高度を下げていくものもあった。
戦いの圏外に置き去りにされた私は時々起き上がって周りを見回してみたが海ばかりで船は見当たらなかった。考えてみれば味方の海軍は壊滅してしまっていたし、敵機が跳梁する昼間に船を出して漁をする者などいるはずもなかった。
『このまま流されて死んでいくのならせめて敵機に体当たりでもして一思いに死んだ方が楽だったかもしれない。』
時間が経つに連れて弱気が心の中を支配していった。東に輝いていた太陽が頭の上を通り過ぎて西に傾いても私の周りは波がうねっているだけだった。
『小桜は自分自身の人生さえも傍観して時を過ごさなければいられないほど辛かったのだろうか。それにしても自分自身を傍観するということは一体どういうことなんだろう。そんなことが可能なのだろうか。映画を見ていてさえ感情移入という現象が起こるのに現実の感情さえ押し殺してしまうのか。ただ我々が小桜の生き方に勝手な理屈をつけているだけで、小桜自身は周りを見ないようにしてそんなに小難しい理屈は考えていないのではないか。
しかし、それならば何故、急に小桜は混沌として先行きの見えない方向に向かって歩き出そうとしたのだろうか。小桜は先日私と向き合ってゆっくり話し合える時が必ず来ると手紙に書いてきた。しかし、どうもそんな時が来る前に自分の命は尽きてしまうかもしれない。それも自分の運命なんだろうか。それとも自分の身に起こることをすべて運命として受け入れてしまえばそれが自分自身を傍観していることになるのだろうか。
運命を運命として受け入れる前に自分ができることを精一杯やってみることが主体的に生きるということなのだろうか。そうだとしたら今何をすればいいのだろうか。生きる努力をすればいいのか、しかし、どうやって。味方は戦闘に手一杯でたった一人の搭乗員の捜索などにはとても手は回らないだろう。ただ、ひたすら体力を温存して通りかかる船と出くわす偶然に賭けるのか。それとも泳ぐか。岸までは少なく見積もっても十キロ以上はあるだろう。汐の流れを考えればとても泳ぎきれる距離ではない。ならばどうする。』
私は波に揺られながら漠然と考えていた。太陽は西に傾き、空を赤く染め始めていた。五月とはいえ朝から海水に浸かっていた私の体は手足も思うように動かないほど冷え切っていた。このまま体が冷えて死んでいくとしたら後どのくらい生きていられるものか私には全く想像もつかなかったが、今の体の状況を考えるとそう長く生きていられるとも思えなかった。明日の朝までは持たないだろうというのが私なりに考えた結論だった。しかし、それならばどうすればいいのかということは全く思いつかなかった。