イメージ 1

 五月が過ぎて沖縄の戦況はもう絶望的になってきた。そして沖縄が終われば次に戦場となるのは間違いなく本土だった。五月雨式に特攻は続いてはいたが、部隊によっては本土決戦のために戦力を温存しようと出撃を控えるところも出始めていた。そんな中、海軍で唯一紫電二一型という新型戦闘機を装備した精鋭の呼び声が高い剣部隊は相変わらず戦闘に明け暮れていた。

 搭乗員も新顔が多くなり、部隊創設当初からの古参もめっきりとその数を減らしてしまっていた。私たちももう部隊では自他ともに認める最古参の搭乗員だった。そんな特権を謳歌して士官次室でも大きな顔でふんぞり返っていたところ、突然従兵が呼びに来た。

「武田中尉、奥様がご面会です。面会所でお待ちです。」

 私はひっくり返りそうになるくらい驚いた。小桜は松山にいるはずだった。こんな最前線まで出てくるなどとは何も聞いていなかった。

「おい、何かの間違いではないのか。妻は松山にいる。こんなところまで出て来るなんて何も聞いていないぞ。」

 私は従兵に聞き返した。高瀬も驚いた様子で私と従兵のやり取りを聞いていた。

「武田中尉の奥様と聞いております。面会所でお待ちですのでお願いします。」

従兵は困ったような顔で繰り返した。

「分かった、ありがとう。すぐに行く。」

 私は席を立った。いずれにしてもここで従兵と押し問答をしていても始まらないと思った。私は部屋を出るとき高瀬を振り返った。高瀬は黙って頷くと席を立って私の方へと歩いて来た。面会所と聞いた時、私は金山少尉を思い出して暗い気持ちになった。あの場所には好い思い出はなかった。中に入る時は胸が高鳴って落ち着かなかった。入り口から恐る恐る中をのぞくと小桜が一人で立っていた。

「お仕事で忙しい時にすみません。こちらに越してきたので一言御報告と思って。住所はここに書いてあります。」

「こんな最前線に出てきて一体どうするつもりだ。ここは毎日空襲がある戦闘区域だぞ。」

「空襲なんて今は何所にいても日常茶飯事ですよ。そんなことを言ったら日本中が最前線でしょう。」

小桜は私の言うことを一笑に付した。高瀬も一緒に笑い出した。

「ずっと前に私は私のできることをしたいと言ったことを覚えておいでですか。私はここで自分のできる方法で皆さんと一緒に戦いたいんです。」

「君は戦争を憎んでいたんではないのか。戦争を見たくなかったのではないのか。どうしてそんなことを考えたんだ。」

 私には事情がよく飲み込めなかった。突然こんなところに出てきて一緒に戦いたいという小桜の本音が理解できなかった。

「まあ、彼女にはそれなりに考えがあるんだろう。それよりも向こうに行って話をしないか。どうもここは落ち着かん。」

 高瀬が私たちの間に割って入った。彼もこの場所にはあまりいい感情を持っていないらしかった。

「おい、ちょっと邪魔をさせてもらってもいいかな。」

突然後で飛行長の声がした。私たちは驚いて手振り返ると敬礼をした。

「俺の部屋に行かないか。武田中尉にはちょっと話もあることだし。」

 飛行長は呆気に取られている私たちにかまわずに先に立って歩き始めた。私は狐につままれたような気持ちで後をついて歩いて行った。

「おい、どうもこれは飛行長が一枚噛んでいるようだぞ。」

 途中高瀬が私にささやいた。そんな高瀬の勘は当っていた。先日、部隊が松山に戻った時に飛行長と小桜は会っていた。その時に小桜の方から隊員の世話をしたいと言い出したのだそうだ。最初は飛行長もどうしたものか迷ったらしいが、司令に相談した結果、部隊で農家を借りてそこを隊員のための倶楽部として小桜に管理してもらうことになったということだった。

「一応貴様には事前に話をしようとは言ったんだが。」

「私がその必要はないと言いました。それは私自身が決めたことですから。」

言い難そうにしている飛行長に代わって小桜が答えた。

「ただ現実から目を逸らして自分の殻の中に閉じこもっているのではなくて、私も私にできる方法で皆さんと一緒に戦います。」

小桜ははっきりと言い切った。何だか私が今まで見たことのない小桜がそこにいた。

『自らが創り出したものに対して無力な神。』

 自分が生んだ子供を失ったことを告白した時に見せた寂しそうな顔をした小桜は何処にもいなかった。

「君がそう決めたのなら僕には何も言うことはない。」

 特に何かの感情を込めて言った訳ではなかったが、どうも周りにはそうは聞こえなかったらしかった。まず、飛行長が敏感に私の言葉に反応した。

「武田中尉、君たち夫婦の時間には十分に配慮するつもりだ。決して君たちの間に深く入り込むつもりはない・・・。」

 私は飛行長が自分たちのことに気を配っていてくれていることを百も承知していながら、逆に自分の知らないところで物事が進行して自分だけが疎外され、それを繕うために特別扱いされているように思えて反発を感じた。

「私は夫婦の時間を持つためにここに来ているわけではありません。ご好意には感謝しますが特別な配慮は必要ありません。」

 飛行長に一礼をすると答礼も確認しないで一人で部屋を出た。そして宿舎には帰らずに掩体壕に引き込まれて偽装された紫電へと向かった。警備の隊員の誰何に労いの言葉もかけずに、ただ「剣部隊の武田中尉だ。」と答えて機体に掛けられた偽装網をくぐり抜けて操縦席に上がった。操縦席に座って風防を閉めると静まり返って物音一つ聞こえない世界が自分を包み込んだ。計器の夜光塗料が無表情に光るのを視界の隅で受け止めながら私は何回も深呼吸をした。

 小桜がどうしてあんなことをしようとしたのか、その理由は分かっているつもりだった。小桜は小桜なりに自分を変えようとしているのだと私はそう理解していた。それで十分なのかどうかは別にして私は私なりに小桜を理解はしているつもりだったが、それよりもどうにも理解できないのはむやみと腹立たしさが沸きあがってくる自分の感情だった。

 外で風防を叩く音がした。音がする方に目を向けると高瀬が『風防を開けろ。』と合図をしていた。私は風防を開いた。

「やっぱりここだったか。操縦席に収まるのが一番落ち着くなんて貴様も一人前の戦闘機乗りになったんだな。」

 高瀬は外に出て来いと合図した。私は素直に高瀬に従って操縦席から立ち上がった。外に出ると高瀬は一升瓶を差し出した。私は黙って茶碗を受け取ると高瀬が注ぐ酒を受けた。

「彼女は貴様には分かってもらいたかったんじゃないのか。どうしてあんなことをしたのか、その理由を。彼女、以前に無力な神というようなことを言ったな。何か訳があるんだろう、そうでなければなかなか考えつかんのじゃないか、自分が創造したものに対して全く無力な神の存在なんて理屈は。俺は彼女がクリスチャンかと思ったよ。」

「うん、・・・」

 私は頷いてからしばらく黙り込んだ。小桜が前に子供を生んで、その子供を亡くしたことを高瀬に話すべきかをしばらく考えたが、高瀬は何かしら勘付いているようだし、思い切って手短に小桜が子供を亡くしたことを話した。

「そうか、彼女、そんなことがあったんだ。良人や子供、そして父親や弟と自分の愛する者が次々に死んでいくのをただ傍観していなければならなかった彼女にとって平静を保って生きるには自分自身の人生まで傍観し続けなければいけなかったのかもしれないな。彼女にとって受けた傷は正面から受け止めて癒していくにはあまりにも深手に過ぎたのかもしれない。だからそれを運命と受け入れて傍観して生きる以外に彼女には選択肢はなかったのかもしれない。

 実はな、お前にはもっと怒られるかもしれないが、この間の手紙に書いてあったんだ、今回のことが。彼女な、きっと自分の人生をもう一度正面から見据えて生きようとしているのかもしれない。そのことをお前に分かって欲しかったんじゃないのか。細々と説明しなくとも。お前にだけは。」

 高瀬は空になった茶碗を手の中で器用に回し続けた。しばらくの間どちらも言葉を口にしようとはしなかった。時折初夏の風が周りの草や機体に掛けられた偽装網をそっと揺すった。私は分かり切った答えを何度も口の中で繰り返した。

「おい」

高瀬が私を促すように言った。

「うん、分かっている。」

私は何十回も口の中で繰り返した言葉をやっと口に出すことができた。

「うん、それでいい。」

高瀬は一升瓶を私に向かって突き出した。

「きっと待っているよ、お前がそう言ってくれるのを。彼女は。」

私の茶碗に酒を注ぎながら高瀬は笑顔を見せた。