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 部隊の再展開が終了して間もなく沖縄周辺に展開する敵への攻撃が再開された。しかし機材や燃料の不足は勢い敵に対する攻撃を十数機づつの攻撃隊による散発的なものへと変更せざるを得なくなり、断続的な攻撃による敵への精神的な打撃はとにかく、実質的な打撃を与えることはますます難しくなっていった。

 また消耗してしまえばそれっきりで補給を全く受けることの出来ない沖縄地上軍はその命運をかけた総攻撃が頓挫した後は圧倒的な兵力、火力を擁する敵の陸海空協同の攻撃に当然の帰結のように徐々に島の南部へと圧迫されていった。

 大規模な特攻攻撃が出来なくなった分、進路制空の任務は減ったが、九州地区に展開する味方基地制圧のために飛来するB二九などの大型爆撃機や艦載機の迎撃、九州沿岸に出没する敵哨戒機狩りとまさに東奔西走の慌しさだった。

 とりわけ一万メートル近い高空を飛行するB二九とそれに随伴する時速七百キロの高速を誇るP五一戦闘機は有効な過給機を装備しない、高高度性能に劣る日本の戦闘機には手に負い難い強敵だった。また沿岸に出没する敵の哨戒機も重防御で多数の防御機銃を装備し、一撃で発火する防御の手薄な日本の大型機と異なり侮りがたい存在だった。

 高瀬は機銃を乱射しながら海面近くを這うように逃走する敵の哨戒機に対して後上方からの二機同時攻撃法やB二九への前上方からの複数機による背面降下攻撃など様々な攻撃法を考案して戦果を挙げたが、このような攻撃方法は高度な技量が要求される上に、厚い防弾板に守られ、燃料が漏れ出すと溶けて気泡化して機銃弾の貫通孔を塞いでしまう特殊なゴムに覆われた燃料タンクなどを装備する敵機は紫電の二十ミリ機銃を以ってしても撃墜するのは容易ではなかった。

 実際、空中戦で火に包まれて落ちていくのはほとんどが日本の戦闘機で敵機は翼や胴体が千切れるまで撃たれても燃え上がることは少なかった。もちろん零戦に較べれば紫電の防弾防火対策はずいぶん進歩してはいたが、それでも敵のものには及ばなかった。それに搭乗員の中には重量の軽減を狙って操縦席背後に取り付けられた防弾甲板や風防正面の防弾ガラスを下ろしてしまう者もいたが、高瀬は自分の列機にはそれを絶対に認めなかった。

「補充が十分ではない味方が戦力を維持するためにはまず被害を極小化することだ。戦って被害は付き物だが、そうだからと言って大ベテランでも生き残るのが難しい戦場に未熟な搭乗員がわざわざやられ易くして出て行く馬鹿があるもんか。機体を軽くしたければ持って行く弾を減らせ。百発で約十キロ、持って行く弾を半分に減らせば四十キロは減らせる。

 それでもまだ四百発も積める。零戦の倍に近い弾が残るんだ。それにこっちは何所に降りても日本だ。弾がなくなったら手近な基地に降りて補充すればいい。それだけがこっちの強みなんだから。」

 高瀬は平然と言ってのけた。命を捨てても攻撃という風潮の中で命を守るために攻撃力を減らせという高瀬の発言は当然上級司令部だけでなく部隊の中にも強い反発があったが、高瀬は一向に意に介さなかった。

「死んでしまってどうして攻撃が出来るんだ。死ねば戦に勝てるのなら全員並んで腹でも切ればいい。」

 高瀬は出撃前、帰還後の整備も欠かさなかった。搭乗員は帰還すると機体を整備に任せて引き上げてしまう者が多かったが、高瀬は整備と一緒になって飛行中の不具合箇所を点検して交換が必要な部品は交換させ、修理が必要なものについては修理をさせた。

 しかし、そうした個人の努力は、当然のこととは言え、戦局にはほとんど何の意味ももたらさなかった。出撃すれば必ず何機かは戦闘前に機体の不調を訴えて引き返したし、ベテランを真似て防弾装備を下ろした搭乗員が初陣で未帰還になることも少なくなかった。

 私自身は高瀬の言うことを忠実に守って出撃していたが、彼のような天才との差は埋めがたく、首の皮一枚を残して危うく帰還することも少なくはなかった。そんな私を高瀬は「無事これ名馬。」などと言って笑ったが、それでも高瀬の言うことを守って防弾装備に救われたことも一度や二度ではなかったし、こまめな整備点検のおかげで出撃後に機体の不調で引き返すこともほとんどなかった。その分搭乗割では飛行長にずいぶん便利がられたりもした。

「高瀬と貴様は普段からよく整備して故障が少ないから割当もずいぶん助かるよ。」

 飛行長はそんなことを言っては何時も我々を搭乗割りに就けていた。おかげでずいぶん修羅場をくぐって箔も度胸もついたが、怖い思いもさせられた。特に凄惨な戦闘は基地制圧のために爆撃に来るB二九とその護衛機群とのそれだった。

 B二九は高度一万メートルを百機以上の編隊で侵攻して来るから味方の頼りない電探でも探知は楽だが、紫電ではそこまで上昇するのに三十分以上もかかる。上がってからも高度を維持して飛行するのが精一杯の状態で機動も自由にならず、そんな状態で戦闘をしなければならないともどかしさが募って防弾板を下ろしても機体を軽くしようという気持ちも分からないでもなかった。

 一万近い高度で侵入してくるB二九を千メートルほどの高度差を取って待ち構え、背面降下で攻撃をかける。何時か島田一飛曹と偵察のF一三を葬ったあの方法だった。一グループ十数機の背面に備え付けられた防御機銃数十門が背面降下攻撃をかける紫電に向かって一斉に射撃を始める。

 あれだけの爆弾を満載していて、一体何所にこんな大量の機銃弾を積み込んでいるのかと思うくらいの弾幕だった。高瀬が先日実証して見せた面を以って点を捉える弾幕射撃を敵はあきれ返るような物量で易々とやってのけた。

 わが国では物資が乏しいことを隠蔽するためにわざと物量を軽視して精神力を上に置く傾向があったが、その物量こそ総力戦に勝利する最も重要な要素であることは戦訓が見事に証明していた。

 山下隊長は攻撃が終わるとそのまま敵の後ろに抜けてから引き起こし、今度は後上方からもう一度攻撃をかけたが、高瀬は背面のまま敵機の鼻先を抜けて引き起こし、敵機の前に出て背面降下攻撃を繰り返した。山下隊長の攻撃方法は八の字攻撃、高瀬の攻撃方法は車がかりと呼ばれた。

 小型機なら一発で撃墜できると言われた二十ミリ機関砲弾も確かに敵に命中しているのはよく見えるのだが、被弾箇所から燃料が流れ始めてもしばらくすると止まってしまうし、一つくらい発動機が止まっても大して速度も落とさずに飛行を続けた。

 しかも防御機銃に撃たれて撃墜される者もあれば、攻撃後の上昇途中に鼻の尖った猟犬のようなP五一戦闘機の急襲を受けて撃墜される者も少なくなかった。

 我々は味方の一部を護衛機対策として上空に待機させた。そして攻撃を終えて上昇する味方を急襲しようとする敵機を妨害した。私も掩護に回って液冷発動機を積んだ鼻の長い、皆がめざしと呼んでいるP五一を追いかけた。しかしめざしなどとばかに出来ない美しく流れるようなラインを持った銀色の機体が空を切り裂くように降下して行くので、よほどうまくタイミングを捉えないと捕捉するどころか、追尾することも容易ではなかった。

 一度敵が上昇しようとするところをうまく捉えて一斉射で撃墜した時は機銃弾が命中すると銀色の機体がまるで花火のように爆発して砕けた。私は撃墜に胸が踊ったが、その時失われた命には何の感情も持たなくなっていた。むしろ大勢の味方の命を奪った、憎むべき相手に対する報復を成し遂げた爽快感しか感じなかった。

 高瀬が密かに心の中で苦闘を続けていた悪魔は私の心をほとんど支配してしまっていたようだった。そのことについて私は自分なりに敵を憎まなければ戦えないと結論付けていた。それは山下隊長の持論でもあった。彼は何をおいても攻撃第一だった。

 そしてどんな時もその先頭に立った。高瀬のような合理主義などかけらも感じさせないその突撃精神は『断じて行えば鬼神もこれを避く。』を体現しているかのようにどんな激戦も涼しい顔で生還した。発動機が不調で速度が出せないのに白煙を引きながら敵のど真ん中に飛び込んで一機を撃墜して、自らも敵の集中砲火を浴びて炎上すると落下傘降下で生還したこともあった。彼にとっては劣位劣勢などお構いなしだった。見敵必戦は彼のモットーだったし、戦闘を始めれば最後の最後まで戦場に留まった。

 山下隊長のそうした戦闘方法は高瀬のそれとはまるで正反対だったが、お互いに特に相手のやり方を批評するようなことはなかった。高瀬は山下隊長を上級者としても、その指導者としての能力も評価していたし、一方山下隊長にしても高瀬の空戦技量や戦闘方法には一目置いていたようだった。

「高瀬中尉、貴様の戦闘方法は一言言わせてもらえば、このご時世そんな悠長なことはやっておれんという感じもするが、味方の損害を少なくして敵に一撃を加えようとやっていることは分からんでもない。それにしてもあれこれ考えて戦うなんぞ、俺には似合わん。だが戦果は挙げているのだから俺はとやかく言うつもりはない。」

 高瀬は山下隊長の言うことを黙って聞いていた。どちらも口には出さなかったがお互いに自分の戦い方を変えるつもりはないようだった。しかしそうして幾ら努力をしても、当然のこととは言え味方の損害は増していった。二代目の五○七飛行隊長として着任した加山大尉はB二九迎撃戦で被弾して自爆した。

 自らを台湾戦以来かろうじて紙一重で生き残っている天才と表した底抜けに明るかった竹本中尉は邀撃戦でP四七の急襲に斃れたし、多田中尉も喜界が島上空に進出して『敵機発見、攻撃に移る。』の一報を発したまま還らなかった。

 士官ばかりでなく被害は下士官搭乗員にも多かった。自分たちは戦争をしているんだ、戦って被害は付き物だ、幾らそう自分に言い聞かせてはみても、お互いに生死を共に命をかけて戦ってきた仲間に対する情は普通の友情などよりも遼に深く堅かった。そんな仲間たちが次から次へと死んで行くのは言い様もなく辛く悲しかった。仲間が斃れて行くたびに敵に対する憎しみはその根を深くしていった。

「敵が二百も三百も戦闘機を繰り出して来るんだから、こっちもせめて百機くらいはそれにぶつけられれば被害も減って戦果も上がるんだが、せいぜい三、四十機じゃあ勝負にならん。それならばせめて保有している機体の稼働率を上げたいんだが、粗製濫造のうえに補給品もろくな燃料もないのだからどうしようもない。

 零戦も五二型が出た時に発動機を馬力の大きい金星に替えて少しでも性能を上げることでも考えればよかったんだが、今の零戦ではもうとても敵の新鋭機とは渡り合えんし。そうかといって海軍には他に適当な機体もないしな。陸軍の四式戦でも融通してもらえるといいのだが、そんなことは敵からグラマンをもらうよりも難しいだろうしなあ。せめて松山の頃のように五十の上くらいをまとめて出せればまだ何とかなるんだろうが。」

 高瀬は飛べなくなって囮として滑走路の片隅に置かれている機体や部品取りのために保管されている機体の群れを前にさみしそうに言った。陸軍の四式戦をもらえればと言った高瀬は本当に陸海軍戦闘機部隊の統合運用のようなことを考えていたのかもしれない。しかし高瀬自身が言ったようにそんなことは敵に機材を貰うよりも難しいことのように思えた。