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 翌日、一機を補充して十機になった我々の部隊は五機づつの変則の二区隊を編成して任務についた。高瀬は昨日の戦訓を取り入れて、二つの区隊が約千メートルの高度差を取って哨戒を行うことにした。

 その日の午後何時もより早い時間に敵の来襲を告げる無線が入った。敵は昨日と同じように上下二段に構えて侵入して来た。その上方に位置する編隊に真っ直ぐに飛び込んで行く紫電があった。小島少尉機だった。高瀬が編隊に戻るよう無線で呼びかけたが、小島少尉からは何の応答もなかった。そして小島少尉はそのまま二度と地上に降り立つことはなかった。

「命を捨てることはそんなに容易いのか。死ねと命令されればもがき苦しむのに、生きて戦えと言われれば簡単に命を捨ててしまう。人間って奴は一体どうなっているんだ。」

 高瀬は手袋を椅子に投げつけた。感情を表に出すことの少ない高瀬には珍しいことだった。本隊が前線に復帰するまでの間、我々は二十機近い敵機を撃墜したが、十機を超える機材と残留した搭乗員の半数に近い六人の搭乗員を失った。彼我の損害を単純に数値で見れば勝ち戦だった。まして、彼我の戦力差を加味すれば大勝利と言っても決して言い過ぎではなかった。反面、戦術的な面から目を転じて生産力から戦闘を分析すればほとんど底をついた日本の工業生産力では敵の半数の戦闘機を失ったことは取り返しのつかない大敗北ともいえた。

 こうして考えてみると単に戦果として表れる表面的な数値を比較して勝った、負けたと一喜一憂していることが児戯にも等しいことと知った。高瀬が言うように戦争の勝敗は前線の戦力を支える補給、整備は言うに及ばず、生産力、技術、資源と言った国力に関するものまで様々な要素を加味して論ずるべきだった。

 生産性や製品の精度といった工業力に関する問題点は飛行場のあちこちに置かれた部品不足や故障で蹴飛ばしても飛ばなくなった決して少ない数とは言えない紫電が無言のうちに物語っていた。どうにも飛ばなくなった機体から部品を取り外したりして、数機の機体からそれぞれ程度のいい部分を寄せ集めては稼動機数を増やそうとする整備の血のにじむような努力はそれ自体賞賛に値することだったが、我々の部隊という海軍のごく限られた一部分で考えても、それが戦闘に大きく貢献するとは言い難かった。

 部隊は人員、機材の補充を受けて再建され、五十を超える機体とともに前線に復帰した。空を圧するような大編隊の勇姿は否が応でも基地全体の士気を高めたが、その内容はむしろ寒々しいとも言えるものだった。

 補充の搭乗員には戦死した高藤少尉の後任として赴任した坂本少尉のような支那事変以来の歴戦の戦闘機搭乗員や比島戦の強行偵察で勇名を馳せた加山大尉のような勇猛果敢な搭乗員もいたが、半数を超える搭乗員が実戦未経験だった。

 しかも、それに加えて補充された機体は高瀬が言っていたように外見は同じでも中身は別物という数合わせの粗製濫造が多く、質の低下した燃料もそれに拍車をかけた。機体の性能は全体的に初期の機体に比較して七、八割に低下していた。そうした悪条件が重なって部隊が戦闘に投入できる機数も部隊創設当初のように五十機を超えることはなかった。

 部隊主力が到着すると残留していた士官は全員が飛行長に呼ばれた。四人いた士官は二名が戦死してその時集合したのは高瀬と私の二人だけだった。

「ずいぶん苦労をかけたそうだな。ご苦労だった。」

飛行長は私と高瀬を交互に見つめながら静かに言った。

「内地ということで甘く見てしまったが、ここは最前線だった。命令とはいえ中途半端な配置をして君たちには本当に辛い思いをさせてしまった。部隊の主力も戦力を回復して展開を終わったことだし、せめて二、三日はゆっくり休んでくれ。」

飛行長は振り返ると机の上に置いてあった二つの包みを取って我々に差し出した。

「武田分隊士、君の奥さんから預かってきた。戦闘機が戻ってきたのを見て尋ねて来たようだった。君たち二人に渡してくれとそう言っていたよ。ご主人は向こうに置いてきたとも言えず辛かったよ。」

 飛行長は苦笑いを浮かべた。そんな飛行長に私たちは丁寧に礼を言うと荷物を受け取って宿舎に引き上げた。寝台に腰を下ろして受け取った包みを開けると下着などの着替えと一緒に手紙が出てきた。そこには簡単な近況の報告が認めてあった。そして最後にこう記されていた。

『今は特に長い手紙を書こうとは思いません。貴方に話すことがないのではありません。話したいことは書いても書いても書き足りないくらいあるのです。でも、私は貴方と向き合って話したいのです。そしてそんな機会がきっと来ると思っています。だから今は貴方の無事と、そして貴方が義務を果たして帰ってくることを祈っています。』

 私は手紙を封筒に納めると高瀬を振り返った。高瀬も中に入っていた手紙を読んでいた。何が書いてあるのかは分からなかったが高瀬は黙って長い間手紙に見入っていた。小桜と高瀬の間に何かしらの感情の交換があることは私も薄々は気がついていた。それは恋愛というよりもそれぞれに何かしら自らが進むべき道を求めようとしている人と人との触れ合いに近かったのかもしれない。

 神という見ることはおろか、触れることも感じることさえ容易ではない概念を通して人としての最高の良心を求めようとする高瀬の生き方が小桜の心を動かしたのかもしれなかった。そしてそんな高瀬の生き方を受け止めて理解しようとしている小桜を高瀬も好ましく思っているように思えた。

 高瀬と小桜が互いに共鳴しあうことについて、それが道を求めるもの同士の触れ合いであろうと、男と女の感情であろうと、私自身は二人の関係に嫉妬などは微塵も感じなかった。小桜が私を愛してくれていることは十分すぎるほど感じることが出来たし、最初から私たちは現実の中でお互いに拠り所を求めようとしてつながった間柄だった。

 だからそういった現実の中での拠り所とは別に高瀬と小桜が精神的な拠り所を探し合うことは何の不思議もなかった。それにこんな時代、私には小桜が言うように私たちがゆっくりと向き合って話をする時間が持てるようになるなどとはどうしても考えられなかった。それどころか今日が終わる時に自分がこの世の中から消え去っていても何の不思議もないように思えた。

 もしもそうなった時、まるで身勝手な考えだということは分かっていたが、人としても、そしてまた戦士としても信頼し、そして尊敬も出来る高瀬が小桜と結ばれるようなことになれば、それはそれで私自身は後顧の憂いが少なくなることには間違いなかった。

「おい」

 そんなことを考えながら高瀬を見つめていた私はいきなり声をかけられて飛び上がりそうなくらい驚いた。

「どうしたんだ、恋焦がれる少女のような目をして俺を見つめて。俺に惚れたのか。さっきからずっとお前の方を見ていたのに気が付かなかったのか。」

 高瀬は微笑みながら私に向かって言った。その高瀬の笑顔を見た時、私は胸を締めつけられるような息苦しさを感じて体を硬くした。

「どうしたんだ、顔まで赤くして。今や貴様もエースだろう。海軍航空隊のエースが本当に俺に恋をしてしまったのか。」

 高瀬は声を上げて笑った。何の屈託もない清んだ笑顔だった。そんな笑顔からこぼれる高瀬の笑い声が耳の中に心地よく響いた。

「この男について行くのなら、そしてその結果なら、俺は何の躊躇いも後悔もなく死ねるかもしれない。」

 自分の顔が紅潮していると高瀬に指摘されて胸が高鳴った。そしてますます体が硬くなって顔が火照っていくのを感じた。高瀬に感じた私の感情は本来同性に感じるはずのないものだったが、私はこみ上げてくる感情に戸惑いながらそれをある種の快感のように感じていた。