金山少尉の行動には手も足も出なかった司令部だったが、その後の処理は手早かった。金山少尉の死は作戦行動外の事故による殉職として処理され、彼自身にも直属の上司にも何のお咎めもなかった。金山少尉の遺体は収容後速やかに火葬されて家族に引き渡された。その後この件は不問に付されて誰も公に口にするものはなくなった。しかし心の底に澱んで容易に流せない後味の悪さは誰にも残った。

 翌日の昼食時、従兵が待機所に来て高瀬と私に面会者が来ていることを告げた。

「女性の方です。」

従兵はわざわざそう断わった。私たちは連れ立って面会所に入ると、赤ん坊を抱いて座っている小柄な女性の後ろ姿が見えた。それが金山少尉の奥さんであることはすぐに分かった。

「三四三空の高瀬中尉です。」

 高瀬はその女性の前に進み出て名乗った。女性は立ち上がって私たちを見つめた。その目は見つめるというよりも憎しみを込めてにらみつけたといった方が当っていた。私が名乗ろうとした時、女性が先に口を開いた。

「あなたたちが私の夫を殺したのですね。」

直截な聞き方だった。私がそれに答えようとした時、高瀬が先に口を開いた。

「そうです。彼の行動が基地の機能を停止させ、他の隊員の生命を危険に陥れる可能性がありました。ご主人はそれを止めよという軍からの警告にも従いませんでした。個人として自分の人生に何を求めようと、それは個人の自由だと思います。

 しかし、公人として勤務している基地の機能を私情によって武器を使用して麻痺させ、他の隊員の生命身体を危険に陥れるような行動はたとえ実力を以ってしても制止されるべきものと考えます。それは犯罪と同一です。我々は戦争をしているのです。

 ご主人が言っていたように『死ね。』という命令はそれ自体命令の限度を超えたものであることは間違いありません。それはご主人の言ったとおりです。しかし我々には任務として負うべき義務があります。そしてそれも決して軽いものではないと考えます。任務がありますのでこれで失礼します。」

高瀬は軽く会釈をすると出口へと足を向けた。その背中に女の非難の言葉が投げつけられた。

「私は無慈悲に夫を撃ち落したあなたが憎い。そして子煩悩で家庭を何よりも大事にしてくれたやさしい夫を戦いに駆り出した戦争が、どんなことがあっても許せないくらい憎いんです。」

高瀬は足を止めた。そして振り返らずに言った。

「憎んでください。私を、そしてこの戦争を。将来二度とこんな悲劇を繰り返さないように憎んでください。」

それだけ言うと高瀬は足早に待機所に戻って行った。

「あなたも人の心よりも任務が大事ですか。」

女は私の方を向き直った。

「私にとってはどちらも同じように大切です。ただし無理無体な命令に抵抗するにもやり方があると思います。他の者を危険にさらすようなやり方は私には受け入れられません。しかし、亡くなったご主人のことはお気の毒でした。」

 私もそれだけ言うと高瀬の後を追った。これ以上何を言っても我々の主張は平行線で、この女を納得させることなど出来ないと自分なりに見切りをつけていたし、女にしてみればそれも当然だった。

 待機所では高瀬が黙り込んで椅子に腰掛け、空を睨んでいた。私も少し離れたところの椅子を足で蹴って向きを直すとそこに座り込んだ。そんな我々を見ていた島田一飛曹が気を使って私と高瀬のところにお茶を運んできた。それでも高瀬は無言で湯飲みをつかんで口をつけただけで言葉を発しようとはしなかった。

 午後に沖縄から飛来した敵機の襲撃があった。我々は早期に情報を得ていたので余裕を持ってこれに対処することが出来た。いつもは編隊を崩すなとくどいほど言っている高瀬はこの日に限ってわだかまった鬱憤を吐き出すように単機で荒れ狂った。

 三十機ほどの敵機に向かって執拗に攻撃を繰り返し、四機を撃墜して帰還した。その高瀬の機体には二十箇所以上の弾痕が残されていた。その弾痕は高瀬ほどの戦闘機乗りでも多数の敵に向かっては無事では済まないことを物語っていた。

 一方、防空隊も敵機三機を落して沸き返っていた。高瀬の教えた射撃法が功を奏したようだった。その晩防空隊から一升瓶二本が届いたが、高瀬は寝台に仰向けに転がったまま手を付けようともしなかった。

「ずいぶんお冠だな、貴様。何時も冷静な貴様らしくない。金山少尉の奥さんに詰られたのがそんなに効いたのか。」

「彼女が取り乱したのは仕方がないことだと思う。金山は軍人としてはとにかく家庭人としては優秀な男のようだ。たとえ戦争とはいえ、その敬愛すべき優秀な家庭人を奪い取られたのだから女にしてみれば逆上するのは当然だと思う。そんなことは何とも思っていない。返って彼女には同情しているくらいだ。」

「飲めよ、お前への礼だろう、防空隊から。」

私は湯のみを差し出した。高瀬はそれを引っ手繰るようにして私の手からもぎ取った。

「注げよ。」

 高瀬は相変わらず無愛想な態度で湯飲みを突き出した。そして私が注いでやった酒をかじり取るように一口飲み込んだ。

「ろくな訓練もさせず、まともな兵器も与えずにただヒステリックに『死ね、死ね。』と叫び続ける司令部の連中にもいいかげん腹が立つが、だからといって負うべき義務を放棄して逃げ出そうとするのはもっと腹が立つ。

 誰も好きで死にたいやつはいない。当たり前に戦って武運拙く戦死することでさえ身震いするほど恐ろしいのに始めから爆弾を抱えて死にに行くことなど狂人でも逃げ出すだろうよ。それを毎日大勢の若者が当たり前のように死に赴いていくなど全く狂気の沙汰だ。いや、狂気を超えている。しかし、たとえ狂気の沙汰だとしても、我々が負うべき義務は軽んずることは出来ない・・・と俺は思うんだ。」

「貴様が特攻に指名されたらどうする。」

 私は煙草に火を点けた。剣部隊にも特攻の打診が来ているらしいといううわさは聞いていた。部隊でも、いや、今や海軍全体でも屈指の空戦技量を持つ高瀬が特攻に指名されることはあり得なかったが、自分たちのような予備士官上がりの搭乗員は特攻に指名される可能性が高かった。

「特攻に指名されたら、まずは一人になって思い切り狼狽して泣き叫んで恐れおののいて死ぬのはいやだと泣き叫んで、いい加減それに疲れたらぼつぼつ身辺整理でもして、女々しい手紙をあちこちに書き綴って、それが済んだら街へでも出てこの世の名残に女と頭が狂うほど遊んで、明け方にでも基地に帰ったら、まず顔を洗って死に装束に着替えて爽やかな顔を作って整列して、最後は笑顔で飛行機に乗って出て行くだろうな。」

 高瀬の言うことはずいぶん誇張はされていたが、概ねそうした立場に立たされた者は誰でもそんなものだろうというところを捉えていた。

「今、ここにいる者が全員で紫電を使って敵の機動部隊に特攻をかけたら、一体何機くらい敵に当ることが出来るだろう。」

私は独り言のように口にしてみた。

「島田さん、どうだろう。他に出撃する機数とか、直掩戦闘機の数にもよるから一概には言えないが、今ここに十五人の搭乗員がいて、俺はいいところ、二、三機も体当たりできれば上出来と思うが。」

「そうですね、あの敵の援護戦闘機と対空砲火を考えたら、私はいいところ二機と思いますが。しかし、空母に二機が同時に当っても、よほど条件がよくなければ撃沈はおろか、戦列外に退去させる程度の損傷を与えるのも難しいかもしれませんね。しっかり出来ていますからねえ、敵さんの艦は。」 

「それじゃあ、うちの部隊が全部特攻に出撃したら、・・」

一人の下士官が声を上げた。

「そうだな、うちの部隊が総力をあげて特攻出撃したら命中機数は約1割として六、七機。空母の一、二隻撃破といったところかな。最高にうまくいって一隻撃沈するのが精一杯だろう。敵の母艦は二十五番を抱えた戦闘機の衝突速度じゃあ、装甲の弱いところを破って誘爆を起こすとか、よほどうまいところに当らないと致命的な打撃は与えられない。」

「それじゃあ、いくら突っ込んでも無駄だということですか。」

高瀬と島田は顔を見合わせた。二人とも悲しそうな顔をしていた。

「無駄ということはないと思う。敵の機動部隊を一時的にでも戦列外に退去させれば、そこに反撃の機会も生まれる、・・かもしれない。」

「しかし、一千機の特攻機を一度に出撃させても体当たりに成功するのは百機にも満たないってことでしょう。第一、そんな数の航空機を一度に作戦に投入するのは不可能でしょう。もう俺たちには戦う術もなくなってしまったのか。」

「そうだな。今の日本にはもう米軍と四つに組んで戦う力は残ってはいない。それよりも、そんな力は初めからなかったんだ。」

高瀬は誰も言わないような言い難いことをあっさりと言ってのけた。

「何だぁ、俺たちのやっていることは無駄だったのか。」

下士官は寝台に仰向けにひっくり返ってうめくように言い捨てた。

「だがな、力があろうとなかろうと、敵はひた押しに押してくる。それを押し止めて国を守るのは誰なんだ。この戦争はもう後一年も続かないだろう。その短い時間の中で俺たちが生き残れる可能性はほとんどないだろう。無駄だからと言って俺たちがやらなかったら、この国は敵のなすがままになってしまう。みんな死ぬのが好きなやつはいないだろう。それでも戦うのが俺たちに与えられた義務だとしたら、みんなどうする、逃げるか、あと一年間、一年逃げれば間違いなく生きられる。それとも戦うか。」

「戦いますよ、俺たちが全員戦死しなけりゃ、この戦争は終わりませんよ。」

「敵に思い知らせてやりましょう。剣部隊ここに在りってねえ。」

「今、俺たちが戦わなければいけないのなら迷うとこはないですよ。戦いましょう、命が尽きるまで。」