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 待機勤務は夕刻日没と共に終了した。我々はあわただしく夕食を済ませると夜の街へと繰り出して行った。たまたま面会所の脇を通った時、一人の予備少尉と若い女が交互に赤ん坊を抱き上げているのが目に入った。我々が一体どの程度軍人らしく見えるかなんてことは考えたこともなかったが、飛行服を身に着けてはいるものの教員か役場の職員のように見えるその予備少尉が特攻隊員なのは明らかだった。

「むごいなあ、どうして現実はこんなに酷いんだ。あれじゃあ、とても出撃の覚悟など出来んだろう。」

高瀬が赤ん坊を抱き上げて微笑む若い予備少尉に目配せをしながら呟いた。

「厭なものを見ましたね。」

 島田一飛曹が高瀬を振り返って顔をしかめた。私たちは足早に営門を抜けて待合の木戸をくぐったが、誰も赤ん坊を抱き上げて微笑む特攻隊員が瞼に焼き付いて離れないのか、酒を飲んでも場は湿っぽく気勢が上がらなかった。

「いかんなあ、さっきの親子が頭に浮かんできて酒が回らん。母艦に戻るか。」

 高瀬が杯を置いた。それを合図に全員が立ち上がって外に出て基地へ足を向けた。門をくぐって宿舎に向かう途中、暗がりから怒声が聞こえた。声の方向を見ると何人かが一人を取り囲んで責めているようだった。私たちは足を止めて様子を窺った。

「貴様はそれでも帝国海軍軍人か。」

「命惜しさに何度も逃げ帰って、死んでいった戦友に恥ずかしくないのか。何とか言ったらどうなんだ。」

 次の瞬間、硬いもの同士がぶつかるような鈍い音が聞こえた。その音と同時に一人の男がよろけて人の輪からはみ出した。それからは堰を切ったように次から次へと一人の男に全員が殴りかかっていった。

「何をしているか。やめろ。」

 私は大声で制止するともつれ合う男たちの方に駆け出した。私が飛び出して来たことに驚いたのか、もつれ合って動いていた男たちは全員が動きを止めて私の方を振り返った。そばに寄ると全員が飛行服を着た特攻隊員なのが見て取れた。しかし、木立の間からもれてくる月明かりでは顔や階級などはわからなかった。

「剣部隊の武田中尉だ。どんな理由があるか知らんが、大勢で一人を殴るのは卑怯だろう。やめろ。」

 私は自分の官姓名を名乗って騒ぎを制止しようとした。それに応じて一人の男が私の方に歩み寄ってきた。

「第一一旭隊の下山少尉です。お言葉ですが、これは私闘ではありません。それなりに理由があってのことです。口出しは無用に願います。」

 下山少尉と名乗った予備士官は『たとえ上官でもこれに口出しは許さん。』とでも言うように私の前に立ち塞がった。

「私闘であろうがなかろうが、一人を寄ってたかって殴りつけるのは卑怯だろう。それに全海軍が一丸となって敵と対峙している時に仲間割れは止めるがよかろう。とにかくこの場は引け。」

 下山と名乗った予備士官の後ろには七、八人の者が集まってどんなことをしても介入は許さないとでも言うように人垣を作っていた。私の後ろにも隊員全員が集まって来て、ろくに争いの原因も分からないまま特攻隊員と制空隊員同士の殴り合いでも始まりそうな険悪な雰囲気になってきた。

「俺はこいつと同じ剣部隊の高瀬中尉だ。君たちにも理由はあるだろうが、ここはひとつ穏便に納めてはくれんか。どうだ、俺たちの宿舎で酒でも飲まんか。話を聞けば何か出来ることがあるかも知れん。」

 若い特攻隊員たちは高瀬の名前を聞いて一瞬たじろいた様子だった。フィリピン以来すでに三十機以上の敵機を撃墜している天才戦闘機乗り、剣部隊の高瀬の名前は全海軍に轟いていた。その高瀬に言われて彼等も折れて後に従った。

 島田一飛曹達が倒れている男を助け起こそうとして「あっ」と叫び声を上げるのが聞こえた。私も両側を支えられてよろけながら歩いてきた男の顔を見て驚いた。その男は夕方面会所で赤ん坊を抱き上げていたあの予備士官だった。

 高瀬は無言で宿舎へ向かって歩き始めた。その後に全員が無言で続いた。そして宿舎に着くと高瀬はためらう下士官たちも全員呼び込んで酒を回した。その頃には私はこの争いの原因が大方のみ込めた。高瀬は顔を腫らして血を流している例の予備士官に手ぬぐいを渡して流れた血を拭うように言った。不承不承に宿舎に入った島田一飛曹たち下士官はスペアと呼ばれる予備士官でも一応は士官で、しかも特攻隊員である彼等の諍いに巻き込まれるのを嫌ってか、少し離れた場所に腰を下ろしてこの騒ぎを傍観する態度を取った。

 全員に酒が回ったところで高瀬が無言で茶碗を持ち上げて乾杯の合図をした。それに合わせて全員がこれも無言で申し訳のように茶碗を持ち上げた。しかし、言葉を発するものはなく誰もが押し黙っていた。何とも言えない重さに押し潰されたような沈黙が続いた。

「さあ。」

高瀬は一人一人に酒を勧めたが、誰も押し黙って茶碗を差し出すだけで口を開こうとはしなかった。

「明日の任務が、」

 島田一飛曹が任務を口実にこの場から抜けようとした時、それを制するように高瀬が殴られていた予備少尉に声をかけた。

「君は所帯持ちなのか。夕刻面会所で奥さんや子供さんと会っていたな。子供さんは幾つになるんだ。」

声をかけられた予備少尉はうつむいたままひざの上に置いたこぶしを握り締めた。

「金山、貴様は女房や子供が未練で覚悟が決まらんのだろう。それで何度出撃しても発動機の具合がどうの、敵を発見できなかったのと言っては逃げ帰ってくるんだろう。貴様のようなやつがいるから俺たち予備士官が馬鹿にされるんだ。恥を知れ。恥を。」

下山少尉が詰った。

「貴様、もう五回目だそうじゃないか。特攻から逃げ帰ったのは。そうして戦いが終わるまで逃げ帰るつもりか。」

下山の言葉を皮切りに溢れ出すように金山と呼ばれた男に対する非難が続いた。

「貴様も日本男児ならここで腹を切って見せてみろ。」

金山は下を向いたまま無言で押し寄せる非難に耐えていた。

「勇敢に戦っても俺たち予備士官に対する差別は変わらんよ。何かにつけて引き合いを出しては自分たちが優れていると納得させようとする海兵出の自慰行為だよ、あれは。今日も昼間海兵出の少尉に素人は黙っていろとでも言わんばかりに噛みつかれたからな。もっとも、対空射撃に関して俺たちは素人には違いないが。」

 高瀬の方を窺いながら私は自分の本音を口にした。海兵出が幅を利かせるこの世界だが、軍人としての専門教育を受けてきた彼等の方が我々よりも軍人としての知識や能力が優れているのは当たり前のことだった。それをことさらにひけらかして自分たちの優位性を誇張するのは下品な自慰行為にしか思えなかった。

「海兵も予備士官もないさ。そんなことを言っていられるほど呑気な状況じゃないよ。全員が一丸となって当らないと本当にこの国はとんでもないことになる。」

「それならこんな戦争は止めればいい。」

ずっと押し黙っていた金山が悲痛な声を上げた。

「勝手に戦争なんか始めておいて負けそうになればヒステリックに『死ね、死ね。』と叫ぶばかりで策も知恵もない。降伏すれば国家の体制は変わるかもしれないが、国民はみんな戦争から開放されるんだ。軍や政府指導部はどうなるか分からないが、米国は日本の国民を皆殺しにしたりはしない。こんな戦争なんか早くやめた方が国民のためだ。俺は家族を守って生きていきたいだけだ。それのどこが悪い。」

 茶碗が床に落ちて割れる音がした。それと同時に「貴様。」という怒声が響いて下山が金山に殴りかかった。

「待て、やめんか。二人ともやめろ。」

私と高瀬が間に割って入って、やっとのことで二人を引き離した。

「貴様、許さん。貴様の臆病風を棚に上げてこんな戦争とは何ということか。淡々と国難に殉じた者を愚弄するのか。貴様のようなやつにこの戦を批判する資格などない。」

 下山は両側から仲間に抑えられながらも憤懣やる方ないといった様子で押さえている者を引きずりながら、なお金山に迫ろうとした。

「私たち下士官が口を出すことではないのかもしれませんが、戦争が続く限り誰かが戦わなくてはいけないのではないですか。その誰かが我々だとしたら戦わざるを得ないんじゃないですか。私の初陣はマリアナ沖海戦ですが、散々な負け戦でしたよ。

 私は艦隊上空の直衛でしたから母艦がやられて海に飛び込んでも駆逐艦に拾われて何とか生きて帰りましたけど、敵艦隊を攻撃に行った連中はほとんど戦死しました。次のフィリピンではもう敵の空母に近づくことも出来なくなりました。そんな状況では普通に攻撃しても皆撃ち落されて何の戦果も得ることは出来ません。どうせ死ぬのならせめて敵に一矢報いてやりたいと思うのは人情でしょう。

 『死ね。』と言う命令は異常だと思いますよ。でも、今この状況で実際に『敵を攻撃しろ。』という命令は『死んで来い。』と言うことと同じことですよ。誰も生き延びられるなんて思っちゃいませんよ。」

 穏やかな島田一飛曹がめずらしくしらけた表情で吐き捨てるように言った。何度も戦闘を潜り抜け、そのたびに大勢の仲間を失ってきた島田一飛曹には特攻という戦法に感じる以上に金山少尉の言葉に反発を感じたのだろう。

「家庭を持ってそれを守りながら自分の人生を生きるのがそんなに悪いのか。『死ね、死ね、死ぬ、死ぬ』と、みんな狂人のようじゃないか。

 ろくな訓練もさせずに息ばかりつくような機体をあてがって、天候もかまわずに突っ込め、突っ込めなんぞはきちがい沙汰だ。敵に取り付けなければ海へでも突っ込んでしまえば英雄なのか。俺にも覚悟はあるんだ。ただ、命が惜しくて戻って来ているわけじゃない。もう、放っておいてくれ。」

「君の言うことは平和な時の普通の社会ではごく当たり前の感覚で全く正しいんだろう。何も間違ってはいない。ただ、俺たちは今戦争をしている。その中で自分が好むと好まざると軍人という公人としての義務を負っている。それを個人の権利と一体どこで調和させるかということに尽きる。

『死んで来い。』

 これはもう命令の範囲を超えている。だからと言って、その限度を超えた命令を拒否できるような状況ではない。そこにどうして自分を生かす道を見つけるか、それが一番の問題なんだと思う。そうじゃないか。」

私は高瀬を振り返った。振られた高瀬は腕を組んで「うーん。」と一声うなって目を閉じた。