「敵機、西方より急速に接近中、待機戦闘機至急発進せよ、至急発進せよ。」
拡声器が引き裂かれるような悲鳴を上げ始めた時には西の空に敵機の姿が見え始めていた。
「回せ、回せ。」
私たちが発動機の始動を急がせようと叫びながら走り出した時には敵機すでにこちらに向かって銃撃態勢に入っていた。
「発進取り止め、発進取り止め。」
待機線では誘導員が敵の急襲に発進は不可能と見て、しきりに赤旗を打ち振っていた。
「今出て行ったら間違いなくやられる。」
目の前を大きな黒い影が通り過ぎた。そして滑走路に猛烈な土埃が上がった。最初の一撃でさっき着陸した零戦が燃え上がったのを見て、私は発進をあきらめて発動機のスイッチを切って機体から降りようと座席から立ち上がった。その時、滑走路を疾走する高藤飛曹長の機体が目に入った。
「危ない、やめろ、高藤飛曹長。」
聞こえないのは承知していたが、私は思わず大声で叫んだ。敵の第一陣が飛び去った後に第二陣がまっすぐにこちらへ向かって来た。
「退避しろ、早くせんか。」
何時の間にか駆けつけた飛行長が割れるような大声を出していた。私たちは機体から飛び降りると手近の防空壕に駆け込んだ。その間に高藤飛曹長は銃弾の荒れ狂う滑走路を抜けて空中に舞い上がっていた。
「がんばれ。」
高瀬が壕から立ち上がって叫んだ。行く手には重なるようにいくつもの敵編隊が高藤機を目がけて殺到しようとしていた。離陸直後で速度のついていない高藤機は発動機を全開にして何とか速度を上げようと苦闘しているようだった。そんな状況でも高藤機は前方から向かって来る敵機目がけて正確な射弾を送り、そのうちの一機に火を吐かせた。
「うまい。」
鮮やかな射撃に誰かが喝采を叫んだ。しかし、高藤機の健闘もそこまでだった。低速で被弾回避も思うようにならないまま、数度にわたって敵機の銃撃を受けた高藤機は真っ赤な炎を噴き出して黒い煙の帯を長く引きながら飛行場外の林の中に墜落して爆炎を上げた。
高藤飛曹長にしても高瀬にしても、空戦技量という、たとえその身に生まれつき備わっていたとしても、普通ならまず誰も気づくことなく一生を終わってしまうような特殊な技能を持ち合わせていた。そのために起こった悲劇だった。
もしも彼が敵の接近を感じ取る動物的な本能を身に備えていなかったのなら、機体に乗り込んでいたとしても、とても発進には間に合わずに退避して生き延びていただろう。そう考えると特殊な能力に加えて旺盛な敢闘精神と責任感を身につけていたがために命を落してしまった高藤飛曹長が哀れだった。
補充のために空輸されてきた特攻用の機体と列線に並べられていた紫電は大半が破壊され、敵機が去った後もくすぶり続けていた。高藤飛曹長の遺体は救護隊によって収容され、医務室に安置された。高藤飛曹長の類まれな空戦技量、実戦経験に加えてその親分肌の豪放磊落な性格は下士官の信頼を一身に集めていた感があったから、頭目を無くした彼等の落胆は察して余りあるものがあった。
そしてそれにも増して高藤飛曹長に深い信頼を寄せ、また彼からも実の兄のように敬愛されていた山下隊長の悲嘆に暮れた表情は見る者誰もが目をそむけるほどだった。山下隊長は敵弾が荒れ狂う中、高藤飛曹長を救おうと待機線の機体に取り付き発進しようとしたが、その無謀な試みは数名の搭乗員や整備員に制止されて果たせなかった。
高藤飛曹長の遺体は滑走路の脇で火葬にされて格納庫内に仮設された祭壇に安置されたが、誰も祭壇の前から立ち去ろうとしなかった。深夜、司令から「明日の任務がある。もうやめよ。」と声がかかって、やっと通夜は数名の者を残して解散となったが、山下隊長は祭壇の前で瞑目したまま動かなかった。
翌日早朝、部隊は二十数機の戦闘機と整備員を乗せた輸送機が高藤飛曹長の遺骨と共に松山に向けて雲の低く垂れ込めた空に向かって離陸して行った。この数週間に命を落した隊員の思いを引きずるような重い空だった。
部隊主力が松山に移動した後も我々は待機任務を続けた。昨日の苦い戦訓を取り入れ、待機線には土嚢を積み上げた掩体が作られ、戦闘機は一機づつその中に引き込まれた。そして待機線の周囲には対空機銃が備え付けられた。見張りも強化されるなど奇襲の被害を防止するために考えられる処置はすべて取られたが、電探と通信網を組み合わせた防空システムが十分に整備されていない我々にとって人の力で出来ることには限りがあった。
「無理だと思った時は躊躇わずに退避しろ。飛行場上空を敵に征圧されているような時に離陸しようなんて間違っても考えるな。俺が出たら後に続け。」
高瀬は厳しい表情で指揮下の搭乗員全員に言い渡した。昨日の損害で機材が足りなくなり、補充搭乗員の訓練用に使用されていた旧式の紫電一一型が格納庫から引き出されて割り当てられた。
「脚に問題があるがそんなに悪い機体じゃない。フィリピンで乗っていたからこいつには俺が乗ろう。」
高瀬がむやみに脚の長い紫電一一型を叩きながら言った。
「私も台湾で乗ったことがあります。補充が来るまでこれに乗りましょう。」
島田一飛曹も紫電二一型に較べると絞りきれていない太くずんぐりした機体を撫でながら高瀬に答えた。
「後の二機は、武田、貴様と小島少尉に乗ってもらうか。そうだ、哨戒を兼ねて慣熟飛行でもしてみるか。古いと言ってもこれは後期型だからそんなに悪くはない。ただし機銃弾は百発弾倉だから改の半分だ。それに脚に故障が多い。それだけは気をつけてくれ。」
高瀬は整備班に発動機を始動するように言うと高い翼に飛びつくようにして機体に乗り込んだ。それを合図に発動機の始動が始まった。あたりに二千馬力の爆音が響き渡り、プロペラが空気を切り裂き始めた。私も割り当てられた機体に取り付くと操縦席に乗り込んだ。概ね計器やレバー類の配置は改と同じだった。一通り計器類を確認した後、高瀬の機体が掩体から滑走路に向かって走り出したのを確認して後に続いた。
改に較べると前方の視界が悪く地上滑走はやりにくかったが、空に上がってしまえば前下方の視界の悪さ以外には目立った違いはなかった。四機が編隊を組んで一通り基本機動を行ってから、しばらく上空を哨戒して約一時間で着陸した。着陸の時は故障の多い二段伸長式の脚が正しく伸び切っているか気になったが、何事もなく四機とも無事に着陸した。