帰投して宿舎に戻ると今朝まで主がいた寝台が、その主を失った後、寝具を片付けられてぽっかりと開いた穴のように敷かれた畳をさらしているのが寂しかった。大きな時代の流れの中では個人の命など嵐の中に置かれたろうそくの火も同然、運命に逆らうことは出来ないとは思っても、その大きな時代の流れは一部の人間たちによって堰が切られて始まったもので、しかもそれも止めようと思えば人間の手で止めることが出来ることを考えると、そうして個人が翻弄されていることが運命だとは素直に受け入れる気にはなれなかった。その晩、高瀬が私の寝台にやってきた。そして端に腰をかけるとタバコをふかし始めた。
「どうした、タバコなんか滅多に吸わなかったお前が。珍しいな。」
体を起こして声をかけると高瀬は天井に向かって煙を吐き出した。
「たまにはいいものだな。これも。」
指に挟んだタバコをぐるぐる回して眺めながら高瀬はまた深く吸い込んだ。
「合理性って知っているか。」
高瀬はまた煙を吐き出した。
「昨日のことか。」
「合理性って言うのはな、数学だ。目的達成のために最小の労力で最大の効果を上げる。それが合理性だ。それは時に非情に徹しなければいけない時もある。」
「そんなことは分かっている。今さら言われるまでもない。」
腹立たしいことを蒸し返されて私は吐き捨てるように言った。
「そういうことを理不尽に感じるということは、まだ人間らしい感情を残しているってことだよ。合理性というのは何をするにしても大事なことだ。しかしな、人の命を合理性で数え始めたらそれはもう合理性でもなんでもない。悪魔の成せる業だ。戦争をするってことは人の命を合理性で数えることだ。貴様はそれに反発するんだからまだ見込みがあるよ。」
高瀬はまたタバコに火をつけた。私は高瀬からタバコの箱を引ったくるようにして取ると同じように1本取り出して火をつけた。
「命を合理性で数えられる方の立場の人間たちはそれを運命とあきらめて受け入れるのか。貴様の言う神はそれを許すのか。」
「俺が言う神ではない。俺たちの神だ。神は許すとも許さないとも言ってはいない。神は我々を助けるとは言ってはいない。我々を救うのは我々自身だ。」
高瀬はタバコを灰皿代わりの空き缶に投げ入れると立ち上がった。
「この世に存在するのは悪魔だけなのか。だから貴様は戦うのか。貴様は自らを救うために戦うのか。」
高瀬は宿舎の出口に向かって歩いて行った。そして出口の近くで立ち止まって振り返った。
「そうだ、部隊は近々戦力再建のために松山に帰るらしいぞ。」
松山への一時帰還は高瀬から聞かされた後、間もなく正式に告示された。その際、部隊の一部を大村に残すことも併せて告げられた。私はそれを聞いて真っ先に飛行長のところに駆けつけた。
「私が残留部隊を率いてここに残ります。」
飛行長は首を傾げた。
「貴様は松山に奥さんがいるのだろう。どうして帰ってやらんのだ。」
「先日、私は家庭に戻していただきました。今度は他の者を最前線から離して休養させてやってください。」
飛行長は私に背を向けて窓の外を見た。
「私では役不足ですか。」
私は飛行長に歩み寄った。
「そんなことはないが、」
飛行長は私の方に向き直った。
「貴様と高瀬は示し合わせてやっているのか。どうして二人で同じことを言ってくるのだ。せっかく女房のところに帰って甘えられるというのに。もう二度と帰れんかも知れんのだぞ。仕方のないやつだ。まあ、いい。貴様がどうしてもというのなら、それでもかまわん。松山から一個小隊が応援に来る。貴様と高瀬の他に島田にも残ってもらうことにした。しっかりと留守を頼む。」
飛行長はそれ以上何も言わずに私が大村に残ることを認めてくれた。
「ご無理を言って申し訳ありません。」
私は部屋を出ようとした。
「海軍の方が貴様たち若い者に無理を言っているのかもしれんな。」
飛行長は窓の方を向いたまま独り言のように呟いた。
松山への帰還が伝えられた日の午後に第二次総攻撃を終了する旨司令官から示達があった。当然第三次総攻撃に備えて戦力の備蓄が始まってはいたが、発着する機体もめっきりと減って基地は一時的に平穏を取り戻した。部隊も一部の待機戦闘機隊を除いて搭乗員には外出が認められた。外に出ても物資が欠乏していて待合に行っても持込の酒を煽るくらいのことしか出来なかったが、それでも隊員たちはこぞって町に繰り出しては鯨飲を重ねた。
それが「死ね。」と命令された者たちを気遣いながら、自分たちの命も知れない戦闘に明け暮れる日常を一時でも忘れるためだということは痛いほどよく分かった。そうして酩酊しては深夜に帰隊して翌朝は日が高く昇るまで眠りこけた。そんな怠惰な生活がなんとも言えず穏やかで心地よかった。しかし、そんな心地のよい数日は吹き抜ける風のように過ぎ去って明日は部隊が松山に引き上げるという日、高瀬と私は閑散とした待機所に並んで座って待機任務に就いていた。高瀬の二番機には高藤飛曹長、私の二番機には島田一飛曹という組み合わせだった。ここ数日は敵の来襲もなく平穏な日々が続いていた。その日も午前中は何事もなく過ぎ、午後も同じように穏やかな時間が過ぎて行った。
「ついこの間まで命をすり潰すような激戦を繰り返していたとは思えませんなあ。さすが物量を誇る敵もこっちの攻撃が少しは堪えたのでしょうか。静かで何よりですなあ。」
高藤飛曹長が空を見上げながら気持ちよさそうに伸びをした。
「高藤飛曹長、敵は大して堪えてはいないよ。こっちの攻撃が一段落したので休養でも取っているんだろう。そういうところは抜け目のない奴等だから。」
私は高藤飛曹長に声をかけてから高瀬を振り返ると高瀬は椅子に座ったまま滑走路に進入してきた零戦を眺めていた。使い古した旧式の機体で発動機も老人のように時々息をついた。特攻用にかき集められた機体の一部のようだった。
零戦は一機また一機と着陸してきたが、何機目かが着陸を終わる頃から高瀬の表情が険しくなった。神経質に飛行場の周囲を見回しては耳を澄ませるように目を瞑った。
「どうした。」
私は周囲を見回しながら高瀬に声をかけた。
「いや、別に。気のせいならいいのだが。何だか胸騒ぎがする。」
高瀬は何度も飛行場の上空に視線を走らせた。そのうちに高藤飛曹長がゆっくりと待機線に並べられた機体に近寄って整備員に何ごとか伝えると、そのまま自分の戦闘機に乗り込んだ。すぐに高藤上飛曹の機体は発動機を始動して暖気運転に入った。高瀬と同じ天才戦闘機乗りは、その時敵機来襲の不吉な予感を感じ取ったのかもしれなかった。