「回せ、回せ。」

 高瀬が叫びながら自分の機体に走って行った。戻った直後で燃料も機銃弾の補給もしてはいなかった。高瀬がそういうことに無頓着なはずはないので、そのまま出ても十分なのだろうと思った。

「出るぞ。」

機体に飛びつくと整備に叫んだ。

「弾も燃料も補充していません。大丈夫ですか。」

「足りなくなったら取りに戻るよ。」

 自分でも本気とも冗談とも判断しかねるようなことを整備員に答えてベルトを締めるとスロットルを押して発進した。

 脇を見ると高瀬の機体が始動に手間取っていた。滋賀一飛曹の機体を横目で見ながらその脇を抜けて滑走路を蹴った。私は血塗られた空へと再び舞い上がった。後に続いたのはほんの数機だった。零戦隊も上がったが、何時ものようにその機数は知れていた。

「敵戦爆連合百機、西南西より接近中。繰り返す、敵戦爆連合約百機、西南西より接近中。」

無線が鳴った。後を振り返ったが高瀬の姿は見えなかった。

「敵に向かう。我に続け。」

 私は無線で列機に伝えるとともに翼を振って合図をした。後に続くのは紫電が三機、それと大村の零戦が十数機、合計二十機にも満たない制空隊だった。

 私は高度を六千にとって旋回しながら敵を待ち構えた。離陸して十五分ほどもした時、西から高度約三千で三梯団に分かれて侵入してくる敵を視認した。今の味方の戦力で敵の侵攻意図を破砕することは困難と判断した私は敵の撹乱を招くために先頭梯団を攻撃目標に選んだ。

「我に続け。突撃。」

 無線に向かって叫ぶと私は敵の梯団の先頭機を狙って降下を始めた。夕日を背負っての攻撃に敵は我々に気づく様子もなく編隊を組んだまま目標に向かって飛行を続けていた。

 降下して敵の一番機を照準器に捕らえると機銃の引き金を引いた。弾丸は一直線に敵機を捕らえた。他の三機もこれに続いた。先頭の機体は爆発して四散し、他に二機が燃え上がって編隊から脱落した。この一撃で敵の先頭梯団は大混乱に陥った。そして後方から続く第二、第三梯団は混乱に陥った第一梯団を避けようと左右に旋回を始めたが、統制の取れない編隊行動は混乱に拍車をかけた。

 脱落した敵機を狙って零戦が食いついた。我々は一撃をかけた余勢を駆って上昇すると反転して第二撃をかけた。まだ混乱から脱しきれない敵は我々を避ける余裕もなく、また数機が火に包まれて落ちて行った。しかし敵の不意をついた我々の優勢もこのあたりが限界だった。数では圧倒的な優勢を誇る敵は我々の方が比較にならないほど劣勢なことを知ってからは我々を包囲して押し潰すように動き出した。

 第三撃が味方にとって限界と見て取った私は、今度は戦闘機を狙わずに攻撃機に的を絞って降下攻撃をかけた。その時には十数機の敵戦闘機が我々を後方から捕らえようと旋回を始めていた。初陣で手ひどい反撃を受けた敵の後方機銃が自分の方に指向されて曳光弾が機体の脇を流れていったが、高速でしかも降下角度が深いので敵の照準は正確さを欠いていた。

 左翼の付け根を狙った射弾は一撃で敵機の翼を砕いた。これを限りにそのまま高度を下げて低空で退避を図った私は列機を振り返った。二番機は私の後について来ていたが、攻撃が遅れた三、四番機は敵の十数機に絡みつかれ、それぞれが数機の敵機に追いかけられて苦戦に陥っていた。

 私は二番機に退避を命じておいて自分は大きく左に旋回して上昇を始めた。三番機は急降下で何とか敵機の追撃を振り切った様子だったが、四番機は振り切ることが出来ず、敵弾を浴びて機首から白煙を引き始めた。もう一刻の猶予もならなかった。私は旋回途中でロールを打つとそのまま機首を落として機銃を乱射しながら敵の中に飛び込んで行った。その一撃で慌てた敵は一旦四散したが、旋回途中のロールで行き足の止まった私の機体は敵の真ん中をゆっくりと降下していった。

 発動機を全開にして深く機首を下げて速度をつけようとしたが、もどかしいくらいに機体の速度は回復しなかった。そんな私の後に敵機が群がり始めた。無数の曳光弾が機体の周りを流れ、何発かが機体に命中する衝撃を感じた。

『もうだめか。』

 恐怖を感じたわけではなかったが、自由にならない機体を操りながら覚悟を決めた私が見たのは、逆に私の後方で火の玉になって砕けた敵機の姿だった。そして私の横を胴体に鮮やかな黄帯を巻いた紫電が通り過ぎていった。

「遅くなってすまなかった。」

 受話器に高瀬の声が響いた。私はようやく機速がつき始めた機体を操って高瀬の後を追った。最近は特に意識もしなくなっていた死はやはり私のすぐそばにあった。ついさっきも高瀬の射撃がほんの数秒遅れていれば炎に包まれて砕けていたのは敵ではなく私の方だったのかもしれなかった。しかし、死は意識するものの、やはり死に対する恐怖は湧いてこなかった。

 傷ついた列機を高瀬と挟み込むようにして退避しながら優勢な敵に格闘戦を挑んだ零戦隊を思い出した。今更支援に戻っても一機や二機の増援でどうにもなるものでもなかったし、機銃弾も燃料も残り少なくなっていたが、そのまま放っておくのは心苦しかった。損傷機が空襲の合間を縫って無事に着陸したのを見届けると私はもう一度空戦空域に機首を向けた。

 高瀬は私の後を追ってきた。私が無線で意図を伝えると、一言「了解」と言って私の前に出た。しかし空戦が始まって十数分、戦闘空域はかなり広がっていて、しばらく索敵を行ったが敵も味方も発見することが出来ずに基地に戻った。

「食らってしまった。見ておいてくれ。」

駆け寄った整備員に声をかけると指揮所に走った。

「制空隊は撃墜確実六機、味方に損害なし。」

今日二度目の戦闘報告だった。

「沖縄に出て行った連中が戻ってくる頃だ。ごくろうだがもう一度上がってくれ。」

 飛行長は双眼鏡で西の空を見つめたまま命令を伝えた。私は黙って敬礼をすると待機所に戻った。椅子に腰を下ろしてすっかり冷めている茶を湯飲みに注いだ。そしてそれを一気に飲み干すと首に巻いたマフラーを締め直した。

「もう一度制空に上がるぞ。」

先に待機所に戻っていた高瀬に声をかけた。

「分隊士、今出せるのは四機だけですよ。」

整備班長は三度目の出撃に驚いたのか、私の方を振り向いた。

「それでかまわん。一番には俺が乗る。高瀬、三番機を頼む。」

私は滑走路に並べられて発動機の始動を始めた四機の紫電の方に目を向けた。

「出よう、敵が何時来るか分からん。離陸時を襲われたらひとたまりもない。」

高瀬が立ち上がって歩き出した。

「武田、一番には俺が乗ろう。貴様は四番を見てやれ。貴様も立派な指揮官になったな。」

私の横を通り過ぎる時、高瀬が私に声をかけた。私は黙って高瀬に頷くと三番機に駆け上がった。