「しまったぁ。」

高瀬の大声で私は目を覚ました。蒲団の上で半身を起こして高瀬が頭を抱えていた。

「どうした、大声を出して。まだ時間は随分あるだろう。」

私が目を擦りながら枕元に置いた航空時計を取って針を眺めた。

「いやあ、しまった。ここで寝込んでしまうとは一生の不覚。せっかくの貴様たちの貴重な時間を台無しにしてしまった。」

「何、大丈夫だ。貴様がぐっすり寝込んでいるうちに済ませることは全部済ませておいたから。心配には及ばない。」

「何をばかなことをおっしゃっているんですか。高瀬さん、どうぞお気になさらずに。とても楽しい時間が過ごせました。あんなに笑ったのは随分久しぶり。本当に願ってもない幸せな時間でした。」

 土間に立っていた小桜が振り返って顔をほころばせた。小桜の曇りのない透き通った笑顔が私にはとても印象的だった。

 申し訳程度の菜と青味の浮いた薄い味噌汁がついた朝食を終えて、私たちは仕度を始めた。そして高瀬と二人で立ち上がった時、小桜が行く手を遮るように私たちの前に立った。

「昨日夫には言いました。高瀬さんも聞いてください。この時代にあなただけでも生き残ってくださいとは言いません。でも死ぬことばかりを考えないでください。どうか必ずやって来る新しい時代を生きることも考えてください。」

高瀬は黙って小桜に向かって頷いた。

 滑走路を蹴って空中に上がると、もうそこは命のやり取りをする戦の場だった。先を行く高瀬の機体との距離を測りながら周囲に視線を送って何時現れるとも知れない敵を警戒した。

「高度を六千に上げる。進路を二七〇に取れ。」

 無線機のレシーバーを通して高瀬の声が響いた。夕べのおどけた声とは比べ物にならない凛と響く声だった。高瀬は機速を三百ノットに増速して一直線に大村を目指した。そして約一時間で大村基地の滑走路に滑り込んだ。飛行長に帰着を報告して通信参謀に新乱数表を引き継ぐと一旦宿舎に戻った。

 荷物を置いて一息入れるとすぐに飛行場に取って返し、待機任務に就いた。戻った時のまま待機線に引き込まれた受領機体が我々の乗機に割り当てられた。真新しい塗装が輝く機体を待機所の椅子に腰を降ろして眺めながら昨日小桜と約束したことを思い出していた。小桜は『ただ死ぬことだけでなく生きることも考えろ。』と言った。それに簡単に頷いたが、この時代に一体どうして生きることを考えればいいのか、私にはそれが分からなかった。

『とにかくこの時代に生きる者として自分の義務を少しでも果たせるよう努める以外にはない。生きるか死ぬかはその結果として後についてくるだろう。』

そう考えてテーブルに置かれた湯飲みに手を出したとたんに緊急発進を告げるベルが鳴った。私は湯飲みをひったくるように掴むと噛み付くように冷めた茶を飲み込んでから駆け出した。

「前離れ。チョーク取れ。」

 操縦席に駆け込むが早いか、私は機付き整備員に声をかけた。ブレーキを踏んだままスロットルを数回煽って発動機の調子を確認した。

「敵機はPBY哨戒機と護衛のグラマン、大村湾内で漁船を攻撃中。待機戦闘機隊は至急発進、敵を撃滅せよ。」

 レシーバーを繋ぐと同時に敵情が流れてきた。今日の戦闘は敵の攻撃を受けている民間人を救助するためのものと知って、常とは違った使命感に奮い立った。本来国民を守るための軍隊であるはずの海軍がいつの間にか国民を離れて軍自体の自存のために戦うようになっていた。そんな海軍にあって海軍自身の自存のために戦わざるを得なかった我々に初めて本来の任務が与えられたように思った。

 小隊長の高瀬が直卒の第一区隊を率いて滑走を始めた。そしてその後に私の第二区隊が飛び出した。敵は低空で漁船を攻撃中との情報が入ったことから、我々は離陸後も高度を取らずに一直線に大村湾に向かった。そして間もなくに海上に敵機を捉えた。

 敵はPBY哨戒機二機と護衛のグラマン八機、敵も我々を視認するとPBYは海面を舐めるような低空飛行で逃走を始め、護衛のグラマンは我々の追撃を妨害するために機首を返してこちらに向かってきた。

「第二区隊、PBYに向かえ。」

 高瀬の声がレシーバーに響いた。グラマンはまともに我々と戦闘するつもりはないらしく遠距離から射撃をして我々の進路を妨害するだけで接近してこようとはしなかった。その射撃の間を縫って我々はPBYに取り付いた。朝飯前と思われたPBYは背中と尾部に背負った銃座から攻撃しようとする我々を狙い撃ってきた。

「敵機の銃座からの射撃に注意しろ。」

 私がレシーバーに叫ぶのと同時に不用意に取り付いた三番機が後方銃座からの集中射撃を浴びて高い飛沫を上げて海中に突っ込んだ。そのあまりにあっけない最後に我々は息を呑んだ。私は速度を上げて敵の前方に回りこんだ。そして海面を這うように逃走する敵よりも更に低空に下りると正面から接敵を開始した。

 ほんの少しでも操縦桿を引き間違えれば敵に撃たれなくても海面に突っ込んで自爆するような低空だった。敵機は水上機のため、離着水のたびに水に浸かる機体下面には銃座が付いていない。強力な上部銃座の射撃を避けるにはこれしかないと思った。

 機体の両側に敵の機銃弾が着弾して水飛沫を上げた。その水飛沫を見ながら機体を左右に滑らせて敵弾を避けた。何時の間にか、命のやり取りをしている修羅場でそういう落ち着いた行動が取れるようになっている自分に驚いた。距離二、三百メートルで機首銃座を狙って射撃を始めた。

 そして最初の一撃で銃座を沈黙させた。銃座の風防が砕けて射手がのけぞるのが見えたが、特に何の感情も湧かなかった。続いて操縦席辺りを狙って機銃を連射した。機体に着弾した機銃弾が火花を散らすと同時に大きな機体がお辞儀をするように前にのめった。それを見て操縦桿を引いた私は上昇しながら振り返ると巨大な水柱が砕けて落ちていくのが見えた。

 残ったもう一機のPBYは執拗に攻撃を妨害するグラマンに阻まれて取り逃がした。高瀬はグラマン一機を撃墜したところで追撃を止めて、しばらく漁船の上空を旋回してから編隊をまとめて帰途に就いた。目の前で敵の大型機を撃墜した我々に船上の人たちは旗や手を打ち振っていた。その上空を我々は翼を降りながら低空で通り過ぎ基地へと向かった。

 「我、上空制空の任に就く。」

 高瀬に無線を送ると私は高度を取って基地の上空を旋回し始めた。残った各機は編隊を解いて順次着陸を始めた。通常は燃料の少ない者から着陸するのだが、今日は近距離の出撃だったのでどの機体も十分な燃料を残していた。第一区隊が全機着陸を終わった後、私の区隊の二、四番機が滑走路に滑り込んだ。二番機の行き足が落ちた頃に滑走路に滑り込んだ四番機は着地と同時に左の脚が折れて機体を回された。

 上空から見守っていた私は息を呑んだ。燃料を大量に残して、しかも着地直後で行き足を残していたため機体は滑走路の上で振り回されて爆発炎上した。救助に走る者たちが蟻のように見える上空で私は直卒の部下を一度に二機も失ってただ燃え上がる炎と黒煙を見つめていた。着陸すると駆け寄った整備員たちを押しのけるように機体から降りて指揮所に駆けて行った。

「PBYを一撃で撃墜としたそうだな。見事だ。町の役場からも礼を言ってきたぞ。」

飛行長が青白い顔をした私の心情を察したのか、笑顔で声をかけてきた。

「部下を二名も失って申し訳ありません。」

私はそれ以上言葉もなかった。自分が手柄を立てたことなど頭の片隅にもなかった。

「戦って被害はつき物だ。それに滋賀一飛曹は事故なんだ。貴様のせいではない。気にやむな。戦いは続く。頼むぞ。」

私は飛行長に敬礼をすると答礼を待たずに指揮所を引き上げた。指揮所には先に降りた高瀬が待っていた。いつの間にか滑走路の黒煙は薄い白煙に変わっていた。
「良い撃墜だったな。正面からの攻撃は正解だ。ただし高度が低いので接敵も被弾回避も難しい。」

「貴様は何とも思わんのか。一度に二機も部下を亡くしたことを。」

「俺たちは戦争をしているんだ。お遊戯をしているわけじゃない。敵も毎日人命を失っている。お互いに殺し合いをしているんだ。こっちに被害が出たからといって怯んでいる場合ではないだろう。今、こうしている問も敵が向かってきているかも知れないんだ。」

「敵戦爆連合、接近中。待機戦闘機隊発進せよ。待機戦闘機隊、至急発進せよ。」

拡声器が割れて歪んだ声を上げた。

「ほら、見たことか。行くぞ。」

高瀬は座っていた椅子を蹴って駆け出した。機体はまだ滑走路にあった。