高瀬は猪口の中の酒を見つめていた。酒を見ていたのではなくて酒に写った自分の顔を見つめていたのかもしれなかった。

 次の瞬間、高瀬は猪口を口に運ぶと中の酒を口の中に放り込むようにして飲み干した。

「いやいや、今日はこういう話をするには惜しいような穏やかな一時だ。楽しくやろう、楽しく。」

 一時の深刻な表情は消え去って、また穏やかな青年の顔に戻った高瀬はきっと心の底に常に去来しているであろう苦悩を振り払うように明るく笑った。

「なあに、神様も明日命の保証もない我々のことは大目に見てくれているだろうよ。おい、武田中尉、貴様『天皇陛下万歳』を叫んでみたことがあるか。なかったら今ここで天皇陛下万歳を言ってみろ。」

私は高瀬に言われるままに『天皇陛下万歳』を叫んでみた。

「我々はそうして『天皇陛下万歳』を叫んで死んで行くが、陛下はそうして国民が死んで行く度に大御心を痛めておられよう。無意味なことだ、お互いに。」

手勺で猪口を満たすと高瀬はそれを口の中に放り込んだ。

「さて、ところで智恵さん、敵の対空砲火を見たことはないだろうが、それはものすごいものだよ。土砂降りの赤い雨が下から吹き上げてくるような、それこそこんな中をどうして敵の弾に当たらずに突破したらいいのか途方にくれてしまうような、そんな物凄さなんだ。さて、そういう時はどうしたらいいと思う。良い知恵はあるかい。」

 尋ねられた小桜は顔を曇らせた。そんな中で我々が戦わなければならないことへの不安とそうした状況を知らされてそれに何と答えたらいいのか、その答えに窮して顔を曇らせたのだった。

「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ。答えは簡単さ。飛行機を百八十度ひっくり返して番傘でも差せば良いんだ。花火の中を番傘差して歩いているようでなかなか乙なものだよ。智恵さんのような和服美人でもいれば尚更乙なものだ。」

 あの敵の撃ち上げる息も詰まるような対空砲火を何度も体験していてどうしてそんな無邪気なことが言えるのかとあきれてしまうようなことを口にしては高瀬はころころとした笑い声を上げて一人で笑った。

 当たる弾の見分け方、墜落しない飛行機の作り方、負けない戦争の仕方、高瀬の話は止め処がなかった。

 そうして散々喋り散らした挙句に畳の上に大の字に寝転がって「ああ、平和の匂いがする。いい匂いだ。戦争が終わったら頭が捩れるほど考えてやる。この戦争が一体どういう意味があったのか、我々はどうすべきだったのか、人間とは、生とは、神とは何なのかを。」と大声で叫ぶと涼しげな寝息を立てて眠ってしまった。

「疲れているんでしょうね、高瀬中尉。そしてあなたも。」

卓の上の物を、音を立てないように気を配りながら片付けていた小桜がそっと高瀬に視線を落とした。

「どうしよう。起こして大家のところに行かせるか。」

「今ここに床を取ります。ここで寝かせてあげましょう。大家さんに訳を話して蒲団を借りてきましょう。」

「ああ、それがいい。ここを片付けてくれ。蒲団は俺が借りてこよう。」

 私は立ち上がって表に駆け出した。そして老提督が笑いながら出してくれた蒲団を抱えて戻ってくると座敷はもうきれいに片付いていた。

「さあ、高瀬中尉を寝かせて上げましょう。」

 小桜に促されて私は甲高い寝息を立てている高瀬の脇に腕を差し込んで小桜と一緒に持ち上げた。きれいに整えられた蒲団の上に横たえられた高瀬は左右に数回体を動かした後、まるで時間が止まってしまったかのように動かなくなった。後には相変わらず甲高い寝息だけが規則正しく続いて高瀬が確かに生きていることを知らせ続けていた。

 後になって思えば高瀬が硝煙と血の匂いが立ち込める戦場から離れて番屋のようなあばら家であっても、まがいなりにも平和な家庭を味わったのはこれが最後になってしまった。私は小桜の勺で高瀬の寝顔を見つめながら猪口をゆっくりと傾けた。

「明日は早いのでしょう。お休みになりますか。」

小桜が小さい声で尋ねた。

「ああ、そうだな。」

生返事をしながら私は煙草を取り出して火を点けた。

「高瀬はあんなにふざけて戦争を語ったが、実情はひどいものだよ。毎日、空虚な美辞麗句に送られて爆弾を固縛した戦闘機や攻撃機が特攻に出撃して行く。その先に待っているのは空を埋め尽くすような数の敵の戦闘機と噴き上げる豪雨のような対空砲火だ。敵艦までたどり着けるのは百機出てもほんの数機だ。

 最近は弾が飛んできても怖くなくなった。人間の死があまりにもありふれていてそれが当たり前のように思うのか、自分だけは死なないと思っているのか、自分にもよくは分からない。あの時のように敵の弾は自分の命の脇を紙一重のところでかすめていく。

 それがいつかは自分の命を貫いて砕く時が来る。今のこの状況では誰にとっても死は不可避だ。そんな日常の中で死ぬのが怖くなくなったのは、返って生きることよりも、どうやって死ぬか、それを考える方が簡単に思うようになったからかもしれない。」

 煙草を深く吸い込むと灰皿の中でもみ消した。小桜が座卓の上の皿や小鉢を重ねて立ち上がった。私は座卓の脚を畳むと部屋の隅に立てかけて、空いた場所に蒲団を敷くとその上に仰向けに寝転がった。横からは相変わらず規則正しい高瀬の寝息が聞こえた。

 しばらくすると小桜が座敷に上がってきた。そしてそっと小さな明かりを消すと蒲団の脇に座った。私は閉じていた目を開けると小桜を見上げた。

「失礼します。」

 小さな声で言うと小桜は私の横に体を横たえた。私は手を伸ばして小桜の体を抱き寄せた。小桜の体の柔らかさ、暖かさが荒んで乾いた私の心を潤すように染み込んで私を満たしてくれた。小桜の匂いを含んだ空気を両方の肺にゆっくりと深く吸い込むと私の心や体を固く縛り付けていた緊張感が消えていった。それを何度も繰り返しているうちに私は安らかな眠りに落ちて行った。

「死なないでとは言いません。でも死ぬことだけを考えるなんてそんなことはしないでください。」

小桜の声が聞こえた。

「あなたも、そして高瀬さんも。」

「うん。」

私は半ば夢の中から小桜に答えた。