「どうも納得がいかん。」

「中山のことか。」

私は飛行帽を椅子に投げつけた。

「情に走りすぎるんだ。この国の人間は。公と私をしっかりと区別することをしないで情に走って行動する傾向がある。そんなことをしていたら任務が果たせんじゃないか。」

高瀬は「おや」という顔をした。

「どうした、貴様にしては珍しいな。中山、双子の兄弟が今日出撃したそうじゃないか。まだ子供なんだ、感情的になるのも止むを得ないところはあると思うが。それにしても気の毒なことをした。ご両親もさぞ落胆だろう。」

「そういう個人の情は情として国そのものが崩壊の瀬戸際まで来ているんだ。こんな時こそ各々が自分の任務をしっかり認識して、それを完遂すべきじゃないのか。誰も彼もが情に走ってしまったら、この国を一体誰が支えるんだ。中山が情に走ったことはやむを得ないと思う気持ちがないわけではない。彼を責めるつもりはないんだ。俺は中山に『生きろ』と言った。それは命惜しさに生き延びろと言ったわけではないんだ。

 『死んで来い。』という非情な命令に従って死んでいかなければならない者も大勢いる。だからこそ生きて戦えと言われた者は体の血を絞られるような思いをしても生き延びて戦う義務がある。そのことを中山に分かってもらいたかった。

 俺たちは戦争をしている。だから生き延びて戦おうと力を振り絞っても命が尽きる時があるかもしれない。しかしわざわざ反転して敵の群がる中に単機で飛び込んでいくような行為は私情に走って命令を蔑ろにする行為だ。それを中山に分からせてやれなかった自分に腹が立つ。」

「うん。」

高瀬は小さく頷いた。

「人は何故自分の分を守って他人を侵さずに生きてゆけないのかな。悲しいことだな。」

高瀬は小さな声で言うと空を仰いだ。

 私にとってやりきれない思いを心に残して幕を開けた第二次総攻撃は底の知れない闇の中に人の命を飲み尽くすような勢いで展開して行った。敵の九州周辺の基地への反撃が強化されたため、部隊は制空に加えて来襲する敵機の迎撃にも追われ、味方の悪戦苦闘は目を覆いたくなるほどだった。それでも各隊の士気は高く冗談を言っては苦境を笑い飛ばして出撃して行ったが、その度に必ず何人かが帰らなかった。

 何もかもが閉塞して出口の見えない状況の中で、時には会心の勝利もあった。我々が待機任務についていると珍しく味方の電探がうまい具合に余裕を持って侵入してくる敵機を捉えた。部隊の待機戦闘機十二機はすぐに発進して敵機迎撃のために高度を取った。他にも大村の零戦隊が我々と一緒に上がった。

 敵は発進する特攻機の制圧を目指しているらしく低空で侵入を開始した。機数は概ね三十機、味方も二十機以上が上がっているので数では敵に遜色はなかった。高度四千で旋回しながら待機していると敵は横隊で西から侵入してきた。敵の高度は約一千、しかも地上に気を取られているのか、我々をなめ切っているのか、上空警戒は何もしていない様子だった。

 敵が地上掃射のために更に高度を落としたところを上から被るように襲いかかった。最初の一撃で十機近くの敵機が火を吐いて地上に突っ込んだ。そしてその後は味方の数機がパニックに陥った敵の単機を散々追いまわして一機づつ潰していった。

 ほんの十分ほどの戦闘で来襲した敵機のほとんどを撃墜して味方には一機の損害もなかった。しかもこの勝ち戦は普段戦闘を目にすることもなく、ただひたすら老朽化して言うことを聞かない機材の整備に励み、黙って特攻隊員を送り出していた地上要員の目の前で繰り広げられたために戦闘を終えて地上に降り立った搭乗員はもみくちゃの大歓迎を受けた。私自身はこの戦闘で二機を撃墜した。しかもこれまでとは違って戦争と言っても人を殺したことに対する言いようのない苦さはもう何も感じなくなっていた。

 ただ、その時心に感じていたのは何時も苦杯を舐めさせられている手強い相手を打ち破った時のような爽快感だけだった。そしてこの時を境に私は戦闘で人を殺すことに何の感情も持たなくなって行った。

 第二次総攻撃はこうして時に会心の勝利を我々にもたらしたものの、それはあくまでごく限られた局地的な勝利であって戦争全般には何の影響も与えはしなかった。味方の戦力は更に枯渇し、沖縄の地上軍は徐々に南へと追い詰められていった。しかも部隊はその終盤に総指揮官として特攻機の進路制空に出た五〇七飛行隊長の山崎大尉が未帰還になるという大きな痛手を受けた。

 味方はまた次の攻撃に備えて戦力の補充回復に力を注いだ。しかし本土全体が敵の制空権下に入ってしまって昼夜の別なく爆撃を受け、海路は敵の潜水艦と飛行機に完全に封鎖されているような状態では戦力の回復も思うに任せなかった。またせっかく補充した機材にしても敵機の空襲で焼き払われることも少なくなかった。

そんな折、私と高瀬は補充機体を受け取った帰途松山への連絡用務を命じられた。

「何、急ぐことはない。一泊して温泉にでも浸かって命の洗濯でもしてくるといい。」

飛行長は笑顔で言った。それは私に対する配慮であることは明らかだった。

 私達は早朝輸送機に便乗して姫路に飛んだ。そこで工場を出たばかりの真新しい補充の紫電を受け取ると燃料と弾薬を搭載して松山に向かった。天候は穏やかで眼下には島々が点在する瀬戸内海が広がり、戦争でさえなければ居眠りでも出そうな春の空だった。

 松山には昼過ぎに降り立った。まずは司令部に出頭して指示を受けると部隊の留守を任されている主計長から「飛行長から連絡がきている。新乱数表は明日の出発時に手渡す。今日はゆっくりするといい。そうだ、武田中尉、特配物資が受け取れるようにしてある。帰宅する前に酒保に寄って受け取って行け。」と随分物分かりのいい親切な言葉をいただいてそのまま開放された。

「おい、一緒に来ないか。せっかく特配もいただいたんだ。小桜に何か作ってもらおう。」

私は酒保で受け取った大きな袋を高瀬に向かって持ち上げて見せた。

「水入らずを邪魔するのは忍びないが、何処といって当てはないし、せっかくの好意だから甘えるとするか。」

 照れくさそうな笑みを浮かべると高瀬は「足と飲み物を調達してくる。」と言って何所かに駆け出していった。そしてしばらくすると側車付きの単車に一升瓶を二本積んで戻って来た。

「乗れ、出るぞ。」

 高瀬に呼ばれて私は急いで側車に乗り込んだ。松山の町を横切って単車は予備海軍中将宅の門前に止まった。私達は木戸を押して敷地の中に足を踏み入れた。その中は激しい戦争を忘れさせるほど何もかもが穏やかにたたずんでいた。私は小桜が暮らす離れを横目で見ながら真直ぐに母屋へと向かった。そして玄関の前で夫人と割った薪を束ねている小桜を見つけた。先に私たちに気がついたのは夫人の方だった。

「芳恵さん、旦那様のお帰りですよ。」

 夫人は私たちを振り返って小桜を促した。小桜は手の甲で額をぬぐいながら立ち上がると私たちの方を向いた。

「あなた、武田さんと高瀬さんがお見えですよ。お出でになってください。」

夫人は家の奥に向かって呼びかけた。すぐに奥から和服を着流した老提督が現れた。

「高瀬中尉他一名、任務により松山に立ち寄りましたので伺いました。」

私達は姿勢を正すと右翼にいた高瀬が挨拶をした。

「堅苦しいことは止めだ。ここは軍隊じゃないんだから。とにかく上がりなさい。」

 私達はまず母屋に上がって簡単なもてなしを受けることになった。そこで老提督から沖縄方面の戦局を聞かれた。高瀬は何の脚色もしない現実の状況を説明すると老提督は大きくため息をついた。話を聞き終わると老提督は日本の戦力ではもう敵に大きな打撃を与えることは不可能であることを私見として付け加えた。

「もうこれは合理的な作戦に裏打ちされた戦闘ではなく、ただ熱に浮かされた集団的自殺です。本当に日本の自殺になる前に何かしら手を打たなくては、日本は、」

高瀬が言っていることは終戦、つまり降伏ということだとすぐに分かった。

「海軍はこの戦の止めどころを探っているのだろう。反対する勢力を押さえながら周りを納得させて平穏に終戦に持っていく道を探っているのだと思う。ただし、滅多なことを口にしてはいけない。特に君たちのような現役の士官は言動に注意しなければいけない。今の大臣と次官が健在なうちは大丈夫だ。きっとこの国の行き先のことはきちんと考えておられる。安心して任せていればいい。」

 私達は揃って深々と頭を下げた。次官には依然横須賀で偶然お会いしたことがあった。剃刀という綽名のとおり聡明な合理主義者に思えた。海軍大臣などとは元より面識などあろうはずもなかったが、押出しが立派な割には中身がないというのがもっぱらの評判だった。ぐずという者も少なくはなかった。しかし一部には帝国海軍創設以来の人物と評する向きもあった。いずれが真実なのか当時の我々には確かめる術もなかった。この老提督は今の大臣を高く評価する一人であるように思えた。それでもその思う所以を詳しく確かめることは出来なかった。