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放射線被曝

 放射能障害ということは言葉としては知っていたが、なかなか実感としてそれを捉えることは難しい。「朽ちていった命」(新潮文庫)は圧倒的な現実感を以ってその恐怖を伝えてくれる。人の、人といわず生物の体は常に新しいものへと更新を繰り返して生命を維持している。それは染色体に書き込まれた遺伝情報によって細胞が分裂して、新陳代謝を繰り返しているからだ。

 放射線は細胞の中にあるこの染色体を破壊してしまう。つまり細胞の設計図を破壊してしまうということだ。そうすると細胞は自身を複製する、つまり分裂という方法で新たに細胞を生み出すことが出来なくなってしまう。細胞分裂が止まってしまえば、その後は今そこにある細胞の寿命が尽きれば生体組織は崩壊していく。そして死に至る。

 放射線は実際に感覚として捉えることが出来ないものだ。被曝した瞬間は目に見える傷害はほとんどない。ところが放射線は遺伝情報を破壊することで徐々に生体組織を蝕んでいく。生きたまま自分の体が崩壊していく様を見続けることの残酷さは言葉では表すことが出来ない。それを東海村臨界事故で被曝された方たちの治療記録は圧倒的な現実感を以って読む者に伝えてくる。体が再生しない、生きながら朽ち果てていく。この悲惨さはそれを癒す言葉も見つからない。

 核が生み出す膨大な熱エネルギーの他にこの地獄の悪魔達も涙するかも知れない無慈悲な殺傷力を人間が兵器として使用するようになってからもう60年が過ぎた。核兵器を廃絶しようとする試みは続いてはいるものの国家の権益という壁に阻まれて成果を上げているとは言い難い。

 第2次世界大戦に参加した大国のほとんどは核兵器の開発に着手していた。日本もその開発に手を付けたが戦局の悪化と裾野の狭い貧弱な国力のために成果を見ることはなかった。日本は完膚なきまでに戦いに敗れ、多くの悲惨な現実を甘受し、また膨大な代償を支払わなくてはならなかった。

 争いごとのない世の中であれば何の問題もないのだろうが、この世には大なり小なり争いことが絶えない。争いごとには勝つに越したことはない。負ければそこには様々な支障が生じてくる。負けてこそ得るものもあるというのは負け惜しみに過ぎない。

 しかし、60数年前、もしも日本が、あるいはドイツが、アメリカを打ち倒すほどの国力を備えていたとしたら、悪魔どもがその知恵を絞りつくしても思いつかないような無慈悲極まりない核兵器を手にし、それを人間の上に落としたかもしれない。

 戦いをしないですんだとしたら、「それは良かった」と素直に言えるのかもしれない。戦いに敗れてそれを良かったと言えるのかどうかそれは分からない。ただあの戦いに敗れたことで核兵器を人類史上初めて人間の上に落とした国として永遠に歴史にその名を刻むことがなかったことだけは良かったと言っても良いのかも知れない。「朽ちていった命」を読みながらそんなことを思った。

 この本は核物質が放つ放射線で命を破壊され、それでもなお生き続けなければならなかった人とその命を破壊された人を助けようと奔走した人たちの空しく悲しい努力が淡々と描かれている。誰もが絶望感に苛まれながらそれでも破壊されつくした命に生を与えようと最後の瞬間まで力を尽くす姿が悲しくも温かい。破壊されつくした被曝者の組織の中で心筋組織だけは何の傷害も受けていなかったということが生物の生きる力の強さを示しているようだ。

 出来ることならこの本を核を保有し、あるいは保有しようとしている国の指導者達に送りつけてやるといいかも知れない。たとえそういう人間達がこの本を読んだとしても核兵器はなくならないし、人間は核の恐怖に曝され続けるのだろう。それでももしも読んで何かを感じたのなら何時か人間は核兵器を捨て去ることが出来る時が来るかも知れない。合掌