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黙って高瀬に向かって頷くと補充機受け取りの護衛のために列線に並べられた自分の機体に乗り込んだ。我々が補充を受けて戦力を回復するまで松山に残留していた部隊が進出して制空任務につくことになっていた。

 工場で新しい機体を受け取って部隊は戦力をほぼ回復した。濃緑色の塗料を塗ったばかりの真新しい機体は頼もしさを感じさせたが、空輸途中で発動機に不調をきたすものも少なくなく『初期の機体と今のでは見かけは同じでも中身は別物。』と言った高瀬の言葉を思い出して暗い気持ちになった。

 基本的に紫電は優れた戦闘機だった。発動機さえ好調ならばF六Fよりも優速だったし、武装も強力だった。ほとんど防弾ということを考慮していなかった零戦に較べれば格段の進歩と言ってもいいほどの重防御で被弾しても容易には発火しなかった。しかも日本の陸海軍が戦闘機の性能として他の何よりも重視していた格闘性能も局地戦闘機という割には決して悪くはなかった。

 しかしそれは戦闘機という空中戦闘システムの一部を取り出して比較した場合のことで、その戦闘機を運用する飛行場や整備補給といった今でいうインフラ・ストラクチャーや多数の飛行隊を統合して作戦するオペレーション・システムというものを含めると敵のそれとは比較にならないほど我々のそれはお粗末だった。

 補給部品の規格の未統一などということは言うに及ばず、粗製乱造による稼働率の低下、電探、無線機の低性能による複数部隊の統一作戦運用能力の欠如、そうした例を挙げれば限がないくらいだった。

 何よりも日本人には個々の戦闘単位をシステムとして統合し運用するという能力に欠けているのではないかとも思えるような点が多かった。技術者は個体として優秀な戦闘機を設計開発することに力を尽くしはするが、生産性、補給、整備といったことには無頓着だった。またそうして出来上がった兵器を運用する軍側は広く舗装された飛行場の整備などということには全くお構いなしに平地を切り開いて整地しただけの着陸誘導施設も何もない飛行場を造って、後は個々の搭乗員の技量に任せっぱなしだった。

 搭乗したことはないが、雷電や陸軍の二式単戦といった翼面荷重の比較的高い着陸速度の速い戦闘機が『着陸が難しい。乗り難い。』と嫌われたのも飛行場を上手に整備すればある程度は解決できたことと思われた。

 そうした中で最も情けなかったのは所属する部隊が違えば『これが同じ海軍の組織か。』とも思いたくなるような相手に対するよそ者意識だった。基本的に顔見知りには総じて親切だが、見知らぬものに対する素っ気なさや冷たさは言葉では言い様がないほどだった。紙切れ一枚貰うにも申請書を出せの、どこの誰に承認印を貰って来いの、まるでよそ者には何も与えないとでも言わんばかりの精根尽き果てるような手続きを要求する。こうしたことも家族あるいは家族が幾つか集まって形成された部落社会を基準にこの国が構成されているためなのか、全くため息が出る思いだった。

 敵は数量的に優勢な上に無線を使って各部隊が相互に援護し合うように運用されるが、こちらは数が少ないだけでなく、その少ない部隊が統一された運用もなく各個ばらばらに優勢な敵に当たっては撃破されていた。そうした現象は単に電探や無線機の性能の差といった技術的なものよりもむしろ日本人の国民性に由来するように思えた。

 補充機を受け取って午後に大村に帰着した時、残留部隊は制空に出撃した後で基地は全体に閑散としていた。行きに搭乗員を積んでいった輸送機は空いた荷室に補給部品を満載していたので、これらの分散秘匿が大急ぎで行われた。私達は機体を整備に預けてしまうと何もすることがなくなったので宿舎へと引き上げた。

 そこで私は寝台の上に置かれた一通の手紙を見つけた。小桜からの手紙だった。私は封書を取り上げて封を切った。世間の物不足のためか、手紙は粗末な茶色の紙切れに近況が簡単に書かれていた。私は手早くその手紙を読み下した。そしてその最後の部分に目をとめた。

『あなたや高瀬さんがこの松山を立たれてから私は自分に何が出来るのかを考えています。』

 ただそれだけしか書いてなかったが、小桜が何かをしようとしていることは文面から痛いほど読み取れた。私は雑嚢から便箋を取り出すと高瀬も自分も元気でいること、戦いは激しいが生活には不自由はしていないこと、銃後の守りに努めて欲しいことなどを簡単に書きとめて小桜に宛てて投函した。『戦争はもう間もなく終わるだろうから決して無理をするな』と書きたかったが、検閲を考えて控えておいた。手紙を投函するついでに指揮所によって明日の搭乗割りを確認しておいた。明日は久しぶりで部隊を挙げての出撃だった。

 第一段階の作戦は一週間続いた。その間、ほぼ毎日午前午後の二回の出撃をこなした。こうして作戦の第一段階を終了した。この戦闘で部隊は機材のほぼ半数と三分の一の搭乗員を失った。陸海軍全体では数百機の特攻機を動員して沖縄沖に集結している米艦隊に攻撃をかけたが、損害に相応する打撃を与えはしたものの我々が敵に与えた打撃はその侵攻意図を挫くには程遠かった。

 沖縄守備軍は上陸した米軍の攻勢によって徐々に島の南部へと圧迫されていった。そして作戦の第一段階が終了する頃、私達は沖縄に向かった戦艦大和が何ら戦果をあげることなく護衛部隊の巡洋艦、駆逐艦とともに敵艦載機の波状攻撃を受けて撃沈されたことを人伝に聞いた。

 海軍は一部の護衛艦艇や潜水艦を除いて、西太平洋上での艦隊決戦を夢見て営々と築き上げてきた艦艇をすべて失ってしまった。戦前、海軍部内に海軍の空軍化を主張する勢力があったと聞いたが、皮肉なことに自ら真珠湾やマレー沖で証明して見せた航空優勢の現実を取り入れて組織や戦術を改革することなくここに至り、結果として海軍はその断末魔に本来自ら改編すべきであった海軍の空軍化を敵の手を借りて敗戦という事実とともに成し遂げたことになった。