「集合です。起床願います。」
伝令の声が響いた時にはもう全員が起き上がって飛行服を身に着け始めていた。そして仕度が終わった者から順次宿舎を飛び出してトラックの荷台に駆け上がった。待機所に着くと誰もがトラックから威勢良く飛び降りて用意されている握り飯にかぶりついた。誰も心の中に重い葛藤を秘めてはいただろうが、そんな様子からは心の中にしまい込んだ葛藤は微塵も感じられなかった。
この日の出撃も午前午後一回づつ、合計二回。午前は鹿屋の零戦隊と、午後は知覧から出た陸軍の四式戦と共同で作戦を行った。たった一日で半数近くにまで減ってしまった味方の編隊が堪らなく淋しかったが、網を張っている敵機はむしろ数が増しているのを見た時、この戦はどう戦ってみても勝ち目はないという気がした。それでも敵を見れば果敢に一撃、ニ撃と攻撃をかけたがそれから後が続かなかった。数に勝る敵に食いつかれて列機を庇いながら逃げるのが精一杯で制空も何もあったものではなかった。午前の出撃から帰ると高瀬が種子島から戻ってきていた。
「戻ろうとしたら傷ついた岸本を見つけたんで奴を庇って逃げたが、種子島に降りたとたんに敵に頭を抑えられて上がれなくなってしまった。今朝は暗いうちに出てきたよ。」
高瀬はほとんど捨て身と言ってもいいくらいの脱出行を例によって笑顔で淡々と語った。
「また撃墜したらしいな、貴様。だが敵を撃墜することよりも列機を見てやらなければ隊長は勤まらんぞ。岸本は貴様の列機だろう。」
昨日の編成では岸本は私の四番機だった。混戦の中で白煙を引きながら降下して行き、戻ったときは姿が見えなくなっていたので撃墜されたと思い引き上げてきたのだった。
「敵機に絡まれて撃墜して戻った時には姿が見えなくなっていた。」
「分かっている。遠くから見えた。貴様が敵機を撃墜するのが。だがな、ああいう時は無闇と絡まないで敵機が味方を攻撃するのを妨害して守ってやらなければ。」
「貴様が岸本を。」
「ああ、ちょっと邪魔してやったらあきらめて戻って行ったよ。単機になって怖いのはどっちも一緒だよ。」
高瀬に事実を教えられた時、傷ついた列機をろくに探しもしないで自分だけ安全な場所に戻ってしまったことが情けなく恥ずかしかった。
「他人のことも自分と同じように可愛がってやれ。それが指揮官の任務だ。」
高瀬はそれだけ言うと駆け出して行った。私自身も午後の出撃に備えてしておかなければならないことが山のようにあった。待機所に戻って戦闘配食の握り飯を口の中に押し込むと例によってお茶で胃の中に流し込んだ。そして副食の漬物や牛肉の缶詰をつまんでまた握り飯に食らいついた。
「午後は国分と大分から零戦隊が出る。会合地点は、・・・」
司令部からの伝令が大声で叫んでいた。誰も声の方を振り向きもしないで握り飯にかぶりつきながら頷いた。食事を済ませると私は自分の戦闘機の点検に出かけた。午前中の戦闘では特に被弾も不具合もなかったが、自分の命を預けている乗り物であることを考えると自分の目でしっかりと確認をしておきたかった。機体をざっと見回して異常のないことを確認すると整備員に声をかけてから指揮所に向かった。出撃する機数は二五機、私の二番機は島田一飛曹だった。
「武田中尉、連日の出撃で苦労をかけるな。だがここが正念場だ、頼むぞ。」
後ろで聞きなれない声が響いて私は振り返った。そこには飛行服に身を固めた司令が立っていた。私は不動の姿勢をとって敬礼した。司令は私に向かって頷くと指揮所の奥へと歩いて行った。発動機を始動して待機する戦闘機や攻撃機の爆音が飛行場全体を包み込んだ。指揮所の前には搭乗員が集合を終えて整列していた。任務や他の部隊との会合地点、不時着飛行場などについて指示や注意があった後、司令が壇上に上がった。
「皇国の空を守るため敵の前に立ちはだかって戦い抜いてくれ。」
司令は搭乗員の顔を一人一人確認するように端から端まで見渡した。そしてゆっくりと壇上を降りていった。
「かかれ。」
山下隊長の号令で搭乗員は一斉に自分の機体に向かって駆け出した。操縦席に座ると自分自身が機械の一部にでもなったように人としての感情が消えて、それとともに迷いや恐怖も消えた。そのまま空に上がって進路を南西に取った。
「喜界が島上空、敵大編隊あり。」
「友軍部隊、種子島上空に向かいしあり。」
無線を通して味方の動きと敵情が伝えられる。出撃するのは我々の他に陸海軍機合計約百五十機。敵は優に我々のニ倍を超える数を待機させている。よほどうまく敵を撹乱して頃合を見計らって引き上げないと制空どころかこちらが袋叩きに遭ってしまう危うい状況だった。
進出途中、大分や国分の零戦隊が加わって編隊は膨れ上がった。その内容はともかく周囲の味方の数が増えたことに安堵感を覚えた。一時間ほどの飛行で水平線に島影が見えてきた。その上空には薄黒い雲のような塊が幾つも重なっているのが見えた。
「敵機多数。零時の方向。」
無線のレシーバーから山下隊長の声が響いた。薄黒い雲のような塊は瞬く間に空を覆い尽くさんばかりの敵機の大群となって私たちに覆い被さった。敵の射程に入る直前私達は二群に分かれて敵の腹の下にもぐりこみ、一旦やり過ごしてから大きく旋回して敵の後方に回り込んで攻撃を開始した。
敵味方合わせて二百機を超える戦闘機が空一杯に広がって殴り合いのような格闘を繰り広げた。爆発して四散するもの、燃え上がり、のたうつように空に黒い煙の筋を残して落ちていくもの、翼を引きちぎられて不規則に回転しながら落ちていくもの、傍から見れば機械と機械の戦いのように見えるこの戦闘でまた多くの命が消えていった。
しかし数百機の戦闘機の空中戦もほんの数分もすると味方も敵も何れかに飛び去り空にはまた静かさが戻って来た。高瀬に言われたように列機を纏めることに腐心していた私は攻撃の機会に恵まれず、両翼内にほとんど手つかずの機関砲弾を抱えて帰途についた。戦果もなかった代わりに列機に被害もなく四機が編隊を組んで進路を北西に取った。
こうして何ごともなかったように四機で編隊を組んで基地に戻った私たちに引き換え基地は傷ついて着陸に失敗して燃え上がった機体の撤去や負傷した搭乗員の収容で右往左往の大騒ぎだった。破損機や車両の間を縫うようにして着陸して指揮所に報告に行くと意外な命令を受けた。敵艦載機が九州東方の洋上から接近しているという。『これを迎え撃つために発進、上空で待機せよ。』というのだった。
作戦可能な戦闘機にはすでに燃料、弾薬の補給が始まっていた。今着陸したばかりの私たちの機体も待機線に引き込まれて燃料、弾薬を補給するために整備員が取り付いていた。
「敵大編隊、東方より接近中。待機戦闘機隊至急発進せよ。」
拡声器が大声を張り上げた。私は茶碗に注がれたお茶を一口飲み込むと自分の機体に向かって駆け出した。
『あれだけの戦闘機を繰り出して味方の攻撃機の進出阻止を図った敵がその直後にどうして数百機の攻撃機を繰り出して反撃することが出来るのか。一体敵の兵力は無尽蔵なのか。』
敵の戦力は聞いてはいたが、実際にその実力をよく知らなかった私には敵の戦力が無尽蔵のように思えた。
『一体ここから味方は何機上がるのだろうか。』
機体に向かって走りながら頭の中にそんな不安が浮かんだ。操縦席に乗り込んで「出るぞ。」と声をかけると「よし。」という答えが整備員から返ってきた。座席に座ってベルトを締めてもらいながら手早く計器を確認した。
『前離れ、チョーク取れ。』
両手を開いて合図をするとスロットルを何回か煽ってみた。発動機も異常はない。滑走路を見るともうすでに何機も離陸を開始していた。私もスロットルを全開にすると後に続こうとした。その時突然目の前を横切って滑走路に出ようとした機体があった。操縦席下の胴体に金色の十字が幾つも描いてあった。高瀬だった。高瀬は操縦席から手を伸ばして『後に続け。』と合図した。私は一も二もなくそれに従った。
先に上がった機体は手近なもの同士編隊を組んで西へ向かった。私たちも続いて上がってきた零戦二機と編隊を組んで高度を取りながら後を追った。先に出たもの、後から飛び上がったもの、ざっと数えて大よそ五十機。先頭が速度を抑えているのか、徐々に前後の距離が詰まって編隊らしくなった。一番機が翼を振って『集まれ。』の指示を出していた。その機体に描かれた鮮やかな黄帯が山下隊長であることを示していた。
『敵戦爆連合、約二百機、大村に向かう。高度四千。繰返す、敵戦爆連合、約二百機、高度四千、大村に向かう。』
無線を通して敵情が流れる。編隊は徐々に高度を上げて約六千で旋回を始めた。高度を取り終わると間もなく西の空に敵の大編隊が見えてきた。
「零戦隊は敵爆撃機に、紫電隊は戦闘機にかかれ。突撃。」
山下隊長の甲高い声が響いた。それと同時に一番機は一直線に敵に向かって行った。我々に気がついて敵も戦闘機の編隊が頭を上げてこちらに向かってきた。一緒に飛行していた零戦二機は爆撃機を攻撃するため翼を振って編隊を離れ、私は高瀬と二機で敵戦闘機に向かった。
「離れるな。」
高瀬の声が無線を通して聞こえた。私は翼を左右に振ってそれに答えた。敵味方双方の編隊が重なり合うと数機が赤黒い炎を引いて落ちて行った。高瀬と私は敵編隊の中を通り抜けて反対側に出るとそこで大きく旋回をしながら引き起こして第二撃の為に体制を整えつつある敵に向かった。最後尾の敵を照準器に捉えて引き金を引くと敵機は簡単に爆発して空中に四散した。
高瀬も一機を仕留めた。高瀬は急上昇して高度を取ると格闘している味方編隊の上空に向かった。味方はほとんどが単機で敵の数機を相手に苦戦をしているようだった。我々はその味方機を掩護しながら戦った。高瀬は急降下するたびに敵を正確に捉えて戦闘が終息するまでに五機を落としたが、私は最初の一機だけであとは正確に敵を捉えることが出来ず一機に煙を吐かせたにとどまった。
旋風よろしく敵編隊の中で荒れ狂った私達は帰投する途中基地を攻撃して帰途についた敵の爆撃機の一隊を発見した。高瀬は躊躇うことなくこれに向かって正面攻撃を反復して四機を撃墜した。私も二機を撃墜したが、戦闘というよりはなぶり殺しのようであまりいい気持ちはしなかった。
長い戦闘を終えて基地に戻ると滑走路には爆撃で出来た穴がいくつも口を開け、あちこちから炎や黒煙が上がって惨憺たるありさまだった。滑走路上の残骸や爆撃で開いた穴を避けるように着陸して指揮所に報告に行くと部隊は副隊長格の安藤大尉他六名を失ったことを知らされた。零戦隊も相当な被害を蒙ってはいたが、敵機五十機以上の撃墜が報告され士気は盛んだった。
「貴様等二人で十二機も撃墜するとはな。山下と高藤の分を合わせると戦果の半分近くになってしまう。全く大した奴らだよ。」
飛行長が半ばあきれたように呟いた。我々は力を振り絞って押し寄せる敵と戦った。ここに来てまだ三日しか経っていないが、一ヶ月にも二ヶ月にも感じられる長い三日間だった。その三日間で稼動機は二十機を割り込んでしまい部隊はその戦力を消耗し尽くしてしまった。
「貴様も、もう押しも押されぬ海軍航空隊のエースだな。」
補充機受け取りのために列線に並べられた機体に向かう途中、後から追ってきた高瀬に肩を叩かれた。個人撃墜数は昨日の戦闘で七機になっていた。しかし、これまでは憧れていたエースの仲間入りをしても絶望的な戦況と人を殺しているという罪悪感のためか誇らしさは何もなかった。