「以前小桜が言ったよな、ただ見守るだけで何もできない無力な神と。それはそれで一つの考え方だろうし彼女がそう思うようになったのにはそれなりの理由が、おそらく彼女のこれまでの人生の中で何かそうした結論を導き出すに至る理由があったに違いない。

 結局神というのはその人の心そのものなんじゃないのか。だから百万人の人がいれば百万の神がある。勿論それぞれの宗教ごとに神の定義はされているし、そうした宗教の定義に当てはまらない神を信奉しているものも大勢いるだろう。

 世間でよく言う運命、それも神の一種かもしれない。そうして誰もが意識するとしないと何らかの形で神とかかわって生きている。いや、神という名をつけた自分の良心と語り合っているのかもしれない。だから自分の理解の限界を超えてしまうと対話も何もないじゃないか。あとはもう祈るだけだよ、この国が崩壊して民族が滅亡する前に戦争が終わってくれることを。」

高瀬はゆっくりと立ち上がった。

「さあ、戻るか。そろそろ主計が飯を運んでくれる時間だろう。せっかくの飯を冷ましてしまっては申し訳ない。」

 私たちは宿舎の方向に歩き出した。途中指揮所を過ぎたところで数人の若い飛行兵と行き会った。彼等は私達を認めると脇によって道を開けて我々に向かって敬礼をした。私たちは彼等に向かって敬礼を返すとそのままその場を通り過ぎようとした。

「失礼ですが松山から来られた戦闘機隊の方ですか。」

私たちは呼び止められて振り返った。

「そうだ、剣部隊の武田中尉だ。君たちは。」

私達を呼び止めた若い飛行兵は特攻隊の編成部隊名を名乗った。

「私達は明日沖縄周辺の敵機動部隊に対して必殺の特攻攻撃をかけます。思い残すことは何もありません。ただ一つ気がかりなのは途中待ち伏せをしている敵戦闘機に食われて沖縄に辿り着けないことです。しかし海軍最強の剣部隊の戦闘機が直掩してくれると聞いて心強く思っています。どうか我々が沖縄の敵艦隊まで辿り着けるようによろしくお願いします。」

「君は何時間飛んだ。」

高瀬が若い飛行兵に聞いた。

「飛行時間は五十八時間であります。」

「そうか。それで乗機は何か。」

「爆装零戦であります。」

「二一型を改造したやつか。元は勇名をはせた零戦だ。悪い乗り物じゃない。君たちなら大丈夫だ。大戦果を期待しているぞ。俺たちもきっと君たちを守ってやる。一つだけ君たちに覚えておいて欲しいことがある。敵機に食いつかれた時はフットバーを思い切り蹴って右か左に機体を滑らせて逃げろ。いいか、敵が射撃を始める直前にフットバーを思い切り蹴るんだぞ。他の者もいいか。よく覚えておけよ。」

「はい。」

元気のいい声が響いた。

「立派に戦おう。」

若い飛行兵たちは口々に礼を言いながら去っていった。

「まだ子供だな、奴ら。飛行技術といっても離着陸と急降下くらいしか教わっていないだろう。あの中で一機でも敵艦隊まで辿り着ければ上出来だろう。」

「あんな未熟な子供まで出すのか。しかも爆弾を抱えさせてそのまま敵に突っ込ませるなんて。」

 ここに来てから塞ぎがちだった気持ちが一気に暗くなった。私と高瀬はそれ以上お互いに何も言わずに黙って歩いた。宿舎に戻ると威勢のいい若い士官連中が誰も彼も暗い顔をして塞ぎ込んでいた。

「どうした。」

「どうもこうもない。ここには死ななければいけない人間が多すぎる。我々が励ましてやらにゃいかんのに逆にどこに行ってもそんな連中に笑顔で励まされる。普通の神経ではとても耐えられん。本当ならこっちが励まして送り出してやらなければいかんのに彼等の方が気をつかわせまいとして明るく振舞っている。宿舎や食事に文句を言っているような自分が情けなくてたまらん。」

丸山中尉が昼間の威勢は何処へやら泣き出しそうな顔をした。

「彼等にしろ、俺たちにしろ、生き残れる可能性はそれほど変わらないだろう。遅かれ早かれ誰もが辿る道だ。仮に彼等が普通の攻撃をしたとしても生きて帰れるのは十機のうち一機か二機だろう。それでも出て行けば必ず死ぬのと一割でも二割でも生きて帰れる可能性があるのとでは天と地ほども差がある。少しばかり長生きのできる可能性のある俺たちがせめて精一杯彼等を護衛してやろう。彼等を犬死させないように。俺たちが彼等にしてやれることはそれしかないのだから。」

 高瀬の言葉に誰もが黙って頷いた。通夜のような夕食が終わってしばらくすると高瀬が酒を飲もうと言い出した。これまでどちらかというと集団から距離を置いていた高瀬には珍しいことだった。

「こんなに沈み込んでいたのでは士気が上がらん。武田、悪いが下士官宿舎に行って人を集めてきてくれないか。多分やつらも沈んでいるだろう。なに、長くはかからん。明日は早い。出陣の前祝だ。」

私は黙って頷いて席を立った。

「邪魔するぞ。」

 一声かけてドアを開けると半地下式の兵舎の湿っぽさにも増して陰鬱なよどんだ空気が押し寄せてくるのを肌で感じた。古参の搭乗員の中にはフィリピンで経験している者もいたが「死んで来い。」と命令された若者がそこここに屯しているこの異様な雰囲気には誰もが気を滅入らせていた。

「士官宿舎で出陣の祝いをしようと思うが貴様等も参加せんか。高藤上飛曹、すまないが一走り山下隊長のところに行って声をかけてきてはくれんか。」

「承知しました。どうもこの湿っぽさには滅入っていたところです。すぐに行ってまいりましょう。おい、誰か酒と肴を調達して来い。」

その声に素早く応じて数名が宿舎を飛び出していった。

「他の者はどうか、長くはかからん。」

誰もが二つ返事で腰を上げた。

「フィリピンでも経験はしましたが、こんなに大勢の死ねと命令された者が、心の中にはいろいろな葛藤もあるのだろうと思いますが、それでも明るく潔く振舞おうとしているのを見ているとさすがに胸に詰まるものがあります。」

 脇を通り過ぎる時に島田一飛曹が声を落としてつぶやいた。私は黙って頷いた。宿舎に戻ると酒瓶や茶碗が置かれ、あらかた準備が出来上がっていた。私が席に着くのとほとんど同時に高藤上飛曹が顔を出した。

「山下隊長は打合せが終わり次第飛行長と一緒にこちらに来られるそうです。先に始めていてくれとのことでした。」

高藤上飛曹が席に着くと高瀬が立ち上がった。

「明日は海軍挙げて沖縄で勇戦敢闘する友軍を掩護すべく同島周辺海域を遊弋する敵機動部隊に必死必殺の攻撃をかける。攻撃隊の隊員諸士を無駄に死なせることのないよう万難を排しても直掩の任務を全うしようではないか。」

高瀬は酒の注がれた茶碗を取り上げると高く差し出した。

「必勝を祈って、乾杯。」

 その高瀬の声に他の者は「おう。」という威勢の良い掛け声で答えた。全員が酒を一気に飲み干して勢いよく茶碗を置いた。勢い余っていくつかの茶碗が割れて乾いた音を響かせた。

「俺たちは決死だが特攻の連中は必死だ。命をかけても完全に護衛してやらなければ剣部隊の名が廃る。彼等を無駄死にさせるわけにはいかんぞ。」 

丸山中尉が大声を上げた。

「何だ、何だ、特攻隊に気圧されてさっきまでしょげ返っていた奴が大きなことを言うな。」

同期の海兵出の士官たちが茶々を入れた。それで沈みきっていた雰囲気がやっと沸いた。

「しかし辛いですな、何度見ても。特攻隊は。」

高藤飛曹長が誰に言うともなく呟いた。島田一飛曹が頷いた。

「フィリピンでも何度も経験しましたが、送るのは辛いものです。それでもフィリピンではまだそれなりに訓練を受けた搭乗員でしたが、ここではやっと単独で離着陸ができるようになったばかりの飛行時間も五、六十時間の子供じゃないですか。そんなひよ子を、二十五番を吊るしたおんぼろの零戦に乗せて敵の戦闘機が何重にも網を張っている機動部隊にぶつけるなんて、ただ撃墜されに行くようなものですよ。武田中尉、飛行時間はどのくらいになりました。」

 突然振られて戸惑った私は「ここに来てから大分飛ばせて貰った。凡そ二百五十時間くらいかな。」ととまどいながら答えた。

「高瀬中尉は。」

島田一飛曹がさらに聞いた。

「戦地が長いんでいやでも飛ばされた。武田よりは大分いっているぞ。それでも四百時間を越えたあたりかな。」

「高藤飛曹長はどうですか。」

「そうだなあ。千時間を越えたあたりだろうか。数えたこともないからなあ。」

 飛行兵曹長とは言ってもまだ二十歳を少し超えたばかりの若者はまるで老成した熟年のような口調で言った。

「開戦時の母艦搭乗員は千時間を超えなければひよこだと言っておった。山下隊長でも七、ハ百時間だろう。」

「そうすると海軍随一の精鋭戦闘機隊と言われたわが部隊も当時の搭乗員に言わせれば隊長以下そろいもそろってひよこの戦闘機隊ってことじゃないですか。」

若い下士官の一言に誰もが大声で笑った。

「確かにそうだ。間違いない。」

入口で高い声が響いた。山下隊長だった。

「隊長。よくお出でくださいました。」

山下隊長の後から飛行長が顔を覗かせた。

「なかなか皆元気でやっておるな。大いによろしい。」

飛行長は笑顔を作って見せた。

「飛行長は真珠湾以来の生粋の母艦搭乗員でしたな。どうですか、我々の腕前は。まだひよ子ですか。」

「そうだな。まあそう慌てるな。俺にも一杯飲ませろ。」

飛行長は招かれるままに奥の真ん中に席を占めると酒を注がれた茶碗を受け取って口をつけた。

「隊長や高瀬中尉、高藤上飛曹のような天才的な戦闘機乗りもいるが、概ね開戦時の搭乗員に比較すると七割くらいの技量と思う。それでもこの差し迫った戦局の中、貴様たちの戦い方には心底頭が下がる思いだ。

 明日から当分想像を絶する激戦が続くだろう。今のような戦い方にはそれぞれ異論もあろうが、創設以来七十余年、海軍は今その命を磨り潰しても御上とお国のために戦う。貴様たちはその中核となって死に物狂いで戦ってくれ。大和魂では飛行機は飛ばん。それはよく分かっている。主計も補給も整備も命を捨てて戦う。今の隊長たちが倒れたら俺が出る。俺が倒れたら司令も出るといっておられる。海軍は伝統も名誉もかなぐり捨てて戦う。この国の未来のために。」

 穏やかに淡々と語る飛行長の言葉に不思議な感動と連帯感を感じた。大げさに言えば「良くぞ男児に生まれける。」とでも言うのだろうか。誰からともなく合唱が始まった。「同期の桜」「海行かば。」お互い肩を組んで大声で歌った。士官も下士官も海兵も予備士官もなかった。運命を共有しながら同じ時間を生きる仲間、言葉で言えばそれが最も近いかもしれない。

 私にしても高瀬にしてもこの戦争や今の軍の戦い方には納得できないものが少なからずあった。そうしたわだかまりがなくなったわけではなかった。そんな自己の理念とは全く別の心の底から湧き上がってくる感情に誰もが酔っていた。酒を酌み交わし、肩を組んで何度も何度も同期の桜と海行かばを歌った。誰もが泣いていた。何時も冷静な高瀬の目も涙で光っていた。