「ねえ森田さん、あなたは本当にあの人が好きだったの。お付き合いしていたの。」

女土方が北の政所様に向かって口を開いた。

「あなたとお付き合いしながら私にも声を掛けるなんて優しそうな人だと思ったけど酷い人ね。」

 女土方は本当に怒っている様子だった。誠意がないと言えばそうかも知れないが、男なんて寄って来る女が生理的に嫌いでなければ「まあ、いいかな。」と思っても不思議はない。そういう生き物と言えばそういう生き物なんだ。でも女にはそういうことは許せない裏切りと写るらしい。その気持ちもそれはそれで分からないでもない。この辺は永遠に埋まらない男と女の溝かも知れない。

「はっきりと結婚と言うことを考えたわけじゃないけどそれも良いかななんて思ったことはあったわ。もっとも私だって子供じゃないから関係が出来たら結婚なんてそんなに単純に考えてたわけでもないけどね。

 でも彼があなたの方を向いていると知った時は年齢のこともあるし何となくあなたの方が彼の好みに合っているかなとも思っていたけど何だか悔しかったわ。あなたに当たることは筋違いだと分かっていてもどうしても自分の気持ちを押さえられなくて。

 あなたがビアンかも知れないと分かってもそういうことって関係ないのよね。自分でもこんな女にだけはなりたくない嫌な女だなと思ったけどね。

 ごめんなさいね、伊藤さん。謝るわ。それから佐山さんも。酷い怪我をさせてしまって。本当にごめんなさい。」

 手強いと思っていたのにあまり素直に謝られるとこっちも面食らってしまう。昨日の今頃は真っ向全面対決の緊迫した情勢だったのが休戦和平へと急転直下方向転換してしまうと何だか拍子抜けしてしまう。

「あの、私こそ感情に任せて年長の人に酷いことしてごめんなさい。手の痕つかなかったですか。もしもついていたらごめんなさい。」

「あなたの手の痕はっきりついてるわ。しばらく消えそうもないわ。後で見せてあげましょうか。」

北の政所様が笑った。それに釣られてみんなが笑い出した。

「あなたのお尻なかなかかわいかったわ。ちょっと見とれちゃった。」

「え、」

北の政所様は顔を真っ赤にして下を向いた。

「あんなことされたの初めてだったわ。恥ずかしくて悔しくて私どうしていいのか分からなかった。でもねえ考えているうちに私の方がもっとひどいことをしたんじゃないかって思うようになったわ。

 伊藤さんが止めてくれたでしょう。あの時何だかほっとしたけど伊藤さんにも悪いことをしてきたのにどうしてって思ったわ。もっと笑い者にすればいいのに何故だろうって。

 部屋に帰って自分の背中についていた血を見て本当に怖くなった。感情に任せて何てことをしてしまったんだろうって。謝ろうと思ったけど自分がされたことを思うと素直になれなくて。決心がつかなかったけど今ここで二人に謝るわ。許してもらえないかもしれないけど。」

 北の政所様は僕たちに深々と頭を下げた。僕は元々このことを引きずるつもりはなかったが、女土方の方は根が深い分複雑な表情をして北の政所様を見詰めていた。

「ねえもうやめようよ。感情は捨てて仕事する時は仕事しよう。ね、咲子。」

 僕は女土方に呼びかけた。女土方はしばらく難しい顔をして僕を見ていたが、最後に大きくため息をつくと笑顔を見せた。

「分かったわ。私も出来ることは一生懸命やるわ。少なくとも仕事に関しては。でもこれまでのことをすぐに全てを水に流せと言われてもそんなに急には感情がついていかないわ。もっと時間が経たなければ。自分の気持ちがどうなっていくか自分でも分からないわ。却って私が加わることでマイナスになってしまうかもしれないけどそれでも良いと言うのならもうこれ以上は何も言わないわ。」

「かなり問題を孕んだ船出と言う感じだな。でも皆さんなら大丈夫、きっとうまくやっていける。」

 社長は口では深刻そうなことを言うが表情は明るかった。本人もこれほどうまく話がまとまるとは思っていなかったのだろう。

「ねえ、お風呂に行こうか。水に流すっていうじゃない。別にしゃれじゃないけど。」

 北の政所様が明るい声で言い出した。沖縄では元々本土のように大浴場で大勢が一度に入浴する習慣はなかったそうだが、本土からのお客が多くなって大浴場や露天風呂を備えるホテルが多くなったらしい。このホテルにも熱帯植物を多く配した大浴場があった。

「ねえ、どう、行かない。」

北の政所様はもう一度促した。

「社長はだめね、一緒の入浴は。」

 北の政所様は悪戯っぽく微笑んだ。その表情は今まで見たこともないようなあどけない可愛らしさを漂わせていた。

「いいわ、行きましょう。」

僕はこれまた旺盛な好奇心からすぐに応じたが、女土方は行くとも行かないとも答えずに黙っていた。

「タオルや着替えはどうするの。」

 北の政所様に聞くと「必要なら売店で買えばいい。」と簡単に答えた。そう言えばロビーの売店では下着も売っていた。土産代わりに一組くらい買ってもいいかと思いながら立ち上がった。

「さあ、行こう。」

僕は女土方に声をかけた。女土方も今度は割と簡単に腰を上げた。

「社長はどうされます。一緒に行かれますか。」

北の政所様は秘書の口調に戻って社長に確認した。

「僕はここで待っているよ。風呂なんか一日に一回入れば十分だよ。ゆっくり行って来るといい。」

「ではしばらく失礼します。」

 北の政所様が秘書らしい言葉遣いで断ると僕たちは連れ立ってロビーへと降りた。売店でそれぞれ下着を買ったが、北の政所様はオレンジ色のレースで派手目のを、女土方は「おふざけだから。」と言いながらハイビスカスのプリント柄のを、そして僕はお尻にシーサーがプリントされているやつを選んだ。

「お二人とも可愛らしいのを選ぶのね。」

北の政所様に褒められながら僕たちは大浴場に入った。僕は北の政所様がお尻のあざを気にするかと思ったが、特にそんな様子もなく北の政所様はかなり気風良く服を脱いで裸になった。やはり思ったように北の政所様にはかなり色濃い紫色のアザがしっかりと残っていた。

「ねえアザついている。」

 北の政所様は後ろを振り返るようにして自分のお尻を覗き込んだ。そして今度はバスタオルを拾い上げると鏡の前に立って自分の後姿を写した。

「ああやっぱりしっかりとアザになっているわね。でもこれで安心したわ、痛み分けね、佐山さんとは。顔を傷つけてしまって本当にごめんなさいね。」

 北の政所様は僕を振り向いてそう言うと体を隠しもしないでタオルを下げて浴場に入って行った。その後姿を見送りながら僕と女土方は顔を見合わせてしまった。浴場には同じ会社の者たちが何人か湯を使っていたが、昨日激戦を繰り広げた僕と北の政所様が同じ湯船で談笑しているのを見て目を瞠っていた。でも、昨日の敵は今日の友と言うし、これも気にしなかった。近づいて話してみれば北の政所様もけっこうあっさりした女性だった。近寄ってみた結果僕自身は悪感情を持たなかったが、女土方は北の政所様には未だに懐疑的だった。それでも大人らしく穏やかに談笑していた。

 僕はまた入浴が男作法にならないように気を使うのに一生懸命だったが、どうも裸になってまで女作法と言うのはゲイにでもなったようで馴染まなかった。傍目で見ても何となくぎこちなかったことだろう。
北の政所様は湯船の淵に腰掛けて自分の生い立ちやそれについての想いなどけっこうあっけらかんと話した。特に母親に日陰の者なのだから表に出てはいけないと厳しく言われたのに相当な葛藤を感じていてそれがトラウマのようになってなかなか心が自由になれなかったと言うことを寂しそうに話していたのが印象的だった。
 
 入浴中北の政所様は特に自分の体を隠そうとはしなかった。確かにもう五十近い年齢なので衰えは隠しようもなかったが、それでも年よりはずっと若く見えた。すらりとしたその体は初々しいかわいらしささえ感じた。そうして出たり入ったりゆるゆると湯に浸かっているうちに僕はいい加減暑苦しくなって温いシャワーを使って風呂から上がってしまった。

 女土方と北の政所様は後から追いかけて上がって来たがその頃には僕はすっかり着替えを済まして涼んでいた。そうして三人揃って部屋に戻った時には一時間以上が過ぎていた。