午前五時、空がようやく明け始める頃には基地は始動した数十基の誉発動機の爆音に包まれ、会話も満足に出来ないくらいだった。その爆音を縫って拡声器から割れた声が響いてきた。

「敵戦爆連合約五百機、数梯団に別れ北上中。位置足摺岬の南東約百五十キロ、搭乗員は指揮所前に集合。繰り返す。敵の戦爆連合約五百機、・・・」

 後は聞かずに指揮所に走った。整列が終わると司令から『全機発進せよ。』の命令が下がった。その後時計の照合、各級隊長への指示があって、各飛行隊長の「かかれ。」の号令で自分の機体に向かって駆け出した。私は途中待機所に駆け込んで火照った喉を潤すために湯飲みを取って茶を喉に流し込んだ。そして手に持った湯飲みをそっと置くと一度大きく深呼吸をして駆け出した。緊張のせいか跳ね上がるような駆け方をしている自分に気がついて足を緩めた。そのため機体に取り付いた時は大方の搭乗員はすでに操縦席に収まって発進準備を終えていた。

「お願いします。」

整備兵が敬礼をして翼から滑り降りていった。

「ありがとう。」

 整備兵に答礼をして操縦席に収まるとベルトを締めてスロットルを前後に数回動かして発動機の応答を確かめた後、操縦桿やフットバーの効き具合や計器類の作動状況を確認した。

『俺は落ち着いている。舞い上がってなどいない。』

 そうして自分自身を確認したことに安心して顔を上げて周囲の様子を窺うと高瀬がこちらを見つめているのに気がついた。高瀬は私に『落ち着け。』というように両手で抑え込むような動作をした。私は高瀬に『大丈夫だ。』というように右手を上げて拳を作って見せた。そんな私に高瀬は『機上無線のジャックを繋げ。』と自分の無線のコードを差し上げて見せた。高瀬の気遣いにやはり自分が冷静さを失っていることを改めて認識させられ慌てて無線のコードを引き寄せた。

「敵編隊は足摺岬東南東約五十キロの洋上にあり。敵は二隊に別れ、一隊は呉方向へ北上中。他の一隊は西北西に進路を変え、高度約四千で松山方向に向かいしあり。戦闘機隊は準備出来次第発進、高度五千で待機せよ。」

「松山へ向かいつつある敵編隊の機数戦爆連合約二百機。繰り返す、松山方向に向かいつつある敵戦爆連合約二百機。」

「飛行隊長より各機へ、集合高度は千五百。繰り返す、集合高度は千五百。なお離陸後各級隊長は無線を『送』、その他は『受』とせよ。」

ジャックを繋いだ途端に各種の無線が次から次へと耳の中に雑音と共に飛び込んできた。

「第三小隊長より各機、落ち着いて我に続け。」

 高瀬の穏やかな声が聞こえた。その声が途切れるのと同時に発進を意味する白旗が激しく振られるのが目に入った。そして戦闘機隊は結成されて初めてその本来の目的を達成するために一番機から順に滑走路を滑り出した。

 第一小隊、第二小隊と離陸して今度は私達の第三小隊の番になった。高瀬の左手が風防から突き出され前に向かって振り下ろされた。私は車輪止めを外すように整備兵に指示してからゆっくりとスロットルを前に押した。低く太鼓を打ち鳴らすような発動機の音が甲高い澄んだ連続音に変わると同時に機体は前に滑り出した。

 滑走を始めた機体は二千馬力のプロペラの回転に引っ張られ機速を増して行くと間もなく車輪が滑走路を切って空中に浮かんだ。その時私の頭に一瞬小桜の顔が浮かんだ。

『小桜、二度と会えないかもしれないが、君達がもうこれ以上涙を流すことがないように力の限り戦ってくる。』

 心の中でそう呟くとすぐに脚上げの操作を行い、左へ旋回しながら高度を取っていった。旋回するために左にバンクを取っている機体からは続々と離陸してくる味方機がよく見えた。そしてその味方の数に訓練の時には感じなかった心強さを覚えた。

 後続編隊のために速度を抑えながら上昇を続けていると高瀬が翼を振って編隊を組むよう促がした。山下大尉直卒の第一小隊はもうすでに編隊を組み終わって八機が一体となって上昇を続けていた。私は高瀬が翼を振るのを見てスロットルを開いて高瀬の右脇に機体を導いた。続いて三番機、四番機が位置についた。後方では第二区隊長機が同じように翼を振って編隊を組み始めていた。

「第三小隊長より各機、編隊を崩すな。そのまま続け。」

 高瀬の声が受話器から流れた。一般に戦闘機搭乗員は作動不安定な機上無線を嫌って手や機体の動きを使った合図を好んだが、高瀬は訓練時から無線を多用した。搭乗割りが頻繁に変わると合図では細かな指示が伝わらないというのが高瀬の言い分だった。

 高度千五百で水平飛行に移って飛行場を中心に大きく旋回しながら後続の集合を待った。六十機余の戦闘機が全機集合を終えるのにさほどの時間はかからなかった。そして編隊を組み終わった部隊は待機高度に移るためにさらに上昇を続けた。

「敵編隊、高知市上空を通過。高度四千、機数約二百。」

 地上からの無線が響いた。高度四千を越えたところで酸素マスクを装着した。高度五千二百で水平飛行に移り、再度大きく左旋回を続けながら敵の来襲を待った。頭の上には雲ひとつない澄んだ青空が広がっていた。そして眼下に見える地上の景色はまるでキャンバスに描いた絵画のようだった。

「左下方、敵機。」

 山下大尉の声が響いた。その声を聞いた途端、体中の筋肉が強張るような緊張感が走った。かろうじて眼を左下に向けて敵機を探した。

「全機、我に続け。」

 山下大尉の声がまた耳に響いた。山下大尉は左旋回を止めて右に機首を向けた。後続の編隊は山下大尉に続いた。山下大尉は大きく右に回りこんで敵に気づかれることなく敵編隊の真後ろを占めるつもりだろうと私は考えた。ところが編隊は右に九十度旋回するとそのまま敵から離れていった。

「敵大編隊東南東より接近。対空戦闘合戦準備。」

「戦闘機隊、敵編隊機数約二百。東南東より接近、高度四千。」

「敵編隊、攻撃態勢に入る。撃ち方始め。」

 地上からの緊迫した無線が次々に飛び込んで来た。しかしその頃編隊は攻撃を受けている基地上空から遠く離れた場所で旋回しながら待機していた。

「対空砲火で敵グラマン一機撃墜。」

「敵戦闘機隊銃撃に入る。」

「対空陣地に爆弾命中。」

 無線は地上部隊の苦戦を伝えていた。そのうち松山の市街から爆煙が幾つも吹き上がるのが見えた。それを見て小桜を思い、その身を案じた。

「隊長、基地や町がやられています。」

無線で誰かが叫んだ。

「基地や町を守らないで何のための戦闘機隊ですか。」

 多くの者が同じ思いだったに違いない。しかし私は山下大尉が敵の引き際を狙う作戦を取ろうとしていることに勘付いていた。

『攻撃を終わって、しかも一方的な勝ち戦ならば敵は油断するだろう。そして味方は基地や町をたたかれた恨みで戦闘意欲は沸騰している。必勝を狙うにはこれほどの作戦はないだろう。しかしそのために地上員や非戦闘員を犠牲にしてもいいのだろうか。それほどまでに冷徹に戦闘に対する勝利を求めるのか。何のための軍隊で俺達は誰のために戦争をしているのか。』

 五分、十分、十五分、心に焼きつけられるように時間が過ぎていっても私達は旋回を続けた。

「敵編隊、引き上げていく。」

地上からの無線が入った。間髪を入れずに山下大尉の声が受話器に響いた。

「全機突撃せよ。我に続け。」

 戦闘機隊は全速力で松山上空に取って返した。そして程なく幾つかの集団に分かれて帰路に就く敵編隊を発見した。今度は敵を見ても最初の時のように緊張することもなかった。大きな編隊が崩れて各隊それぞれの目標に向かって急降下して行った。