「分隊士、どうして敵が明日来襲するといえるのですか。何か理由があるのですか。」

高瀬はおどけた顔で鼻をひくひくさせた。

「匂いがするのさ、匂いが。」

その言葉につられて何人かの搭乗員が高瀬の真似をして鼻をひくひくさせた。

「ばか者、その匂いじゃない。分隊士は戦闘機乗りの勘でものを言っているんだ。」

古参の搭乗員がたしなめた。

「何だ、本当に敵機の油の匂いでもするのかと思った。」

最初に鼻をひくひくさせた搭乗員が真顔で言った。それにつられて座がどっと沸いた。

「敵の機動部隊が泊地を出てそろそろ一週間、洋上で補給をしていても、もう今ごろは日本近海に到着しているだろう。明日は忙しいぞ。」

「いよいよ来るか。よし、やるぞ。分隊士、敵を撃墜するコツを教えてください。」

「直線飛行をするな、周囲、特に後ろに気をつけろ、敵にうんと近づいて一撃で落とせ、落したら高速で戦闘空域から離脱しろ、そしてもう一度良い位置を占めてから攻撃に移れ、後ろに付かれたら右か左に機体を捻って急降下で逃げろ、そんなものかな。後は無理をするな、敵を撃墜出来なくてもいいから必ず生きて帰って来い。」

「それじゃあ敵には勝てません。」

「纏まった数の戦闘機が日本の上空に存在することが大切なんだ。味方の数が揃っているのが分かれば敵は無闇とかかって来ない。」

「どうも分隊士の言うことは難しいなあ。山下隊長のように『貴様等の命は俺が貰った。全員俺について来い。』と、そんな風に言ってくれれば分かりやすいのになあ。」

高瀬は上を向いて大きく口を開けて笑った。

「分かり難くてもいいから覚えておけ。とにかく明日は戦になる。早く休んで気力を養っておけ。また明日の晩に皆元気で会おう。」

高瀬は立ち上がって、その場にいた者全員を見回した。その時高瀬はとても優しい目をしていた。

「楽しかった。明日は全力で戦おう。健闘を祈る。」

私も高瀬に続いて立ち上がった。

「やります。」

元気のいい声が次々に返ってきた。その声を背中で受けながら私達は部屋を出た。

「少し表に出ないか。」

高瀬は手に持った一升瓶を振りながら言った。私は黙って頷いた。頷いた私を見ると高瀬はそのまま外に歩いて出て行った。そして兵舎から少しばかり離れたところに腰をおろすと作業ズボンのポケットから湯飲みを二つ取り出した。

「少し埃でも付いているかもしれないが、まあいいだろう。」

高瀬は酒を注ぐと私に差し出した。

「戦をしているのだから仕方がないのかも知れないが、人殺しをしてそれを何も感じなくなってしまうのは恐ろしいことだよ。どんな理由をつけようと自分のしていることは人殺しだと心に刻み付けているんだが、それでも敵機を落とした時は鳥肌が立つほど全身に快感が走るんだ。冥土への道標のように曳光弾が敵に向かって延びていって、それが敵の機体に吸い込まれ、機体から部品が飛び散って炎が噴出すと、そして機体が爆発して砕け散ると鳥肌が立って全身が震え出すほど気持ちがいいんだ。その炎の中に敵とは言え人間がいて体を焼かれ打ち砕かれて命を落としているのに、それが分かっていてもたまらなく気持ちがいいんだ。

 そんな自分がたまらなく恐ろしくて、自分が人を殺していることを忘れないように自分の機体に十字架を描いたんだが、そんなこと滅多に口には出来んしなあ。おい、武田、人の心の中に神はいないのかなあ。どうも悪魔は間違いなく棲んでいるようなんだが。少なくとも俺の中には。

 瑞穂が殺された時、俺は『これが戦争なんだ。』と言ったが、それはそれで仕方のないことと思うし、何も感じなかったと言えばそれはうそになるが、特に敵に憎悪を感じるということもなかった。奴等を落とした時も敵討ちというよりも落とさなければ俺が落とされていたからだった。奴等にしても自分達の仲間を随分俺達に殺されているのだろうから、日本人すべてを敵と捉えてあんなことをしたのかもしれない。それは戦争という人間個人の感情を遥かに超えた激流に押し流された結果で、流れが治まれば人はまた元の穏やかさを取り戻すのだろう。だが俺は、俺の場合は、俺のこの殺戮と破壊に対する快感は俺自身が内に持っている本質的なものではないかと思うと、」

高瀬は湯飲みの酒を一気に飲み干した。

「明日は敵が来ると言ったが、何か根拠があるのか。」

高瀬は一升瓶をつかんで酒を湯飲みに注いだ。

「さっきも言ったように特に根拠なんかない。俺の悪魔がそう言うんだ。『敵が来るぞ。思う存分殺戮と破壊が楽しめるぞ。』ってな。」

 私は高瀬に返してやるべき言葉をなくしてしまった。誰よりも冷静に戦争を見つめていると思っていた高瀬がまさかこんな感情を内包して苦悶しているとは思いもよらなかった。私にはその時敵を撃墜した経験どころか何より実戦の経験がなかったから敵機を撃墜した時にどのように感ずるのか分からなかったが、戦果を上げれば多かれ少なかれ喜びは感じるだろうし、破壊に対する潜在的な欲望は誰でも持っているのではなかろうかと思った。

「俺にはまだ実戦の経験も敵機を撃墜した経験もないから分からんが、お前が言うようなことは男なら多かれ少なかれ誰でも持っているのではないのか。」

高瀬は半分ほど飲みかけた湯飲みを置いて私に向き直った。

「そうかもしれない。軍人にとって殺戮と破壊は勲章だからな。しかし俺は軍人ではない。確かに今はそうかもしれないが、それはあくまで一時的なもので職業として軍人を選んだわけではない。殺戮と破壊は俺にとっては罪悪でしかない。ところが自分自身にその罪悪を渇望している部分があることが問題なんだ。しかもそれがどんどん肥大化している。」

「高瀬、お前はクリスチャンなのか。」

まさかと思ったが、私は思わず口に出して叫んだ。

「ああ、生まれた時からの敬虔なキリスト教徒だ。両親がそうだったので、物心ついた時にはそうなっていた。」

「そう言えば貴様、西洋哲学専攻だったな。それでか。」

「ああ、それもある。それだけじゃないがな。俺はこれまで自分は何時も神と共にある、そう思ってきた。神が存在すると信じていれば自分は何時も神と共にある。それが俺の信仰だった。決してよく出来た方のキリスト教徒ではなかったから悪いことはあれこれやってきた。それでもそれが罪悪であることは意識していたし、抑えようと思えばそれは抑えられた。ところが今度ばかりは自分の殺戮と破壊に対する欲望は大きく強くなっていくばかりで抑えようにもどうすることも出来ない。その気持ちをどうして抑えればいいのか自分には分からない。

 俺は戦うことを拒否しているわけではない。人間の歴史はほとんど戦の歴史といってもいい。生まれた時代が戦争の時代だからと言って特殊な時代に生まれたとは思わない。戦争に参加すれば敵を殺すことも止むを得ない。それも納得できる。納得できないのは自分が殺戮という行為に本能的な快感を覚えていることだ。そしてそのことで、これまで共にあると信じてきた神を感じなくなってしまったことなんだ。」

 飛行予備学生以来これほど感情を剥き出しにして苦悩する高瀬を見たことはなかった。そんな高瀬に言ってやれる言葉はたった一つしか思いつかなかった。

「高瀬、戦争をしているんだ。俺達は。」

高瀬は一瞬呆気にとられた顔をした。そしてすぐに笑い出した。

「分かった、分かった。戦いは暫く続くだろうからゆっくり考える。」

 それからしばらく私達は黙って酒を飲んだ。ほどほどに飲んだところで私は「そろそろ、」と言って立ち上がった。続いて高瀬も腰を上げた。

「高瀬、貴様の神はこの戦争をなんと言っているんだ。」

宿舎に向かって歩きながら私は高瀬に聞いた。

「何も言わん。」

高瀬はただ一言だけ答えた。

「総員起こし。総員起こし。敵見ゆ。足摺岬の南南東海上、・・・」

 拡声器が我々の夢を破って鳴り始めた。私達の体はこの一声で否応なく全力運転を開始した。それは職業軍人であろうとにわか雇いであろうと戦士として鍛え上げられた者の本能だった。機械のように定められた手順で飛行服に着替えると外に駆け出した。そして整備員と一緒になって手近の飛行機に取り付くと滑走路に向かって力いっぱい機体を押した。

「搭乗員は指揮所前に集合。繰り返す。搭乗員は指揮所前に集合。」

拡声器が割れた声を繰り返し響かせていた。

「頼むぞ。」

 機体に取り付いている整備員に一声かけて指揮所に向かって走る。指揮所では整列した搭乗員の点呼を取り飛行長に報告しようとするのを飛行長自身が制した。

「報告はよろしい。敵情を伝える。敵機動部隊は足摺岬南南東三百キロの太平洋上を高速で北上中と味方哨戒艇より至急電入電あり。敵艦載機来襲の公算大と認める。各飛行隊は即時待機とせよ。なお、只今より司令から達する。」

飛行長の結びの一言で全員が不動の姿勢をとった。司令はゆっくりと指揮台に上がった。

「司令から皆に望むことはただ一つ、本土上空の制空権の奪還である。徹底的に撃墜せよ。諸君の健闘を祈る。」

 司令の訓示は簡潔かつ明快だった。我々の目的は制空権の奪回、それのみであった。待機所で登場割を確認する。第三小隊第一区隊二番機、高瀬の列機だった。もう一度搭乗割りを確認して後を振り返ると高瀬が笑っていた。

「よろしく頼むぞ、先輩。この間言ったこと忘れるなよ。」

 高瀬は何時もの落ち着きを取り戻していた。私達は待機所に運び込まれた握り飯をほお張りながら滑走路脇に並べられた紫電を眺めていた。敗戦続きとはいえ七十機近い戦闘機が翼を連ねた光景はなかなか壮観だった。ここは帝国海軍今だ健在の力強さに溢れていた。その戦闘機の間を燃料補給用のトラックや弾薬を満載したトレーラーが走り回り、機体に取り付いた整備兵が忙しそうに動いていた。