基地は灯火管制が行われていて真っ暗闇だった。正門には完全武装した兵士が歩哨に立ち、そこここに配置された高角砲や対空機銃にはそれぞれ要員が配置されて緊迫した雰囲気が漂っていた。

「搭乗員は明朝○五○○、指揮所に集合。」

「対空戦闘合戦準備、敵の夜襲に備えよ。」

 拡声器から流れる指示や号令が緊迫した雰囲気を掻き立てていた。私は高瀬と連れ立って飛行長の部屋に報告に行った。高瀬は飛行長に敬礼をすると事務的な口調で言った。

「高瀬中尉、武田中尉、隊員二名とともにただいま帰隊いたしました。」

「ご苦労だった。明日は早い。ゆっくり休んでしっかり戦ってくれ。」

飛行長は今日のことについては何も言わなかった。『敵襲を防ぐことが出来ずに民間人にまで被害を出したことに一番責任を痛感しているのはこの人かもしれない。』私は飛行長の何時になく重い表情を見て思った。私達は飛行長の部屋を出ると宿舎には戻らずそのまま外に出た。

「いやな思いをさせて悪かった。俺が誘わなければこんなことには巻き込まなかったのに。許してくれ。」

高瀬は落ち着いた声で私に謝罪した。

「俺の方こそ何もしてやれずに子供達や貴様の恋人を死なせてしまった。謝らなければいけないのは俺の方だ。許してくれ。」

私は大空に向かって掴みかかるように見開かれた女の目を思い出していた。

「そんなことは構わない。あんな時何かが出来る方がおかしいんだ。貴様は落ち着いて行動して子供を守ってくれたじゃないか。」

「しかし、軍人として、」

「武器を取って戦闘態勢にあってこそ軍人だ。丸腰で敵の戦闘機に一体何が出来る。それに日本は戦争をしているんだ。そしてあれが、今、日本のしている戦争だ。日本人は実体を見極めずにその場の感情で戦争を受入れてしまったが、ひとたび自分に類が及びそうになると場当たり的に手近なところで責任のありそうな者を手当たり次第非難することで自分の責任を逃れようとする。

 俺は瑞穂が火葬にされる時、彼女の肉が焼けてはじけ、その肉の間から露出した骨が燃え尽きて白い灰になるのをじっと見ていた。戦争は軍人だけでなく国民すべてに過酷であり無慈悲で残酷なものだ。その実体をしっかりと見据えて、それでも戦うことが必要なのか、それを判断してから戦いを始めるべきだったんだ。」

 相変わらず高瀬の声は特に感情に駆られた様子も興奮した態もなく平静だった。それでも最後に小さくため息をつくように「一緒に通夜でもしてやってくれないか。」と一言付け加えた。私は何も言わずに黙って高瀬に向かって頷いた。

「ちょっと待っていてくれ。」

高瀬は宿舎の方に走って行ったが、すぐに湯飲みを二個と一升瓶を手に下げて戻ってきた。

「余り飲み過ぎると明日に差し支えるから軽くいこう。」

 瓶には酒は半分も入っていなかったが、その酒でさえ今の重く曇った気分では負担に感じた。高瀬は一人で滑走路の端の方に歩いて行った。そして宿舎から随分離れたところで立ち止まると腰を下ろして茶碗に酒を注ぎ始めた。

「乾杯と言うわけにはいかんし、とにかく冥福を祈るか。」

高瀬は茶碗を捧げるように持ち上げると一口酒を飲み込んだ。

「武田、ここ数日のうちに実戦を経験することになるだろうが、今から言うことだけは決して忘れるな。いいか、生きて帰りたかったら絶対に忘れるなよ。
 一つ、戦闘空域に入ったら直線飛行だけはするな。
 一つ、敵を撃墜しようと思うな。
 一つ、列機と離れるな。
 一つ、後方の注意を怠るな。
 一つ、食いつかれたら急降下で逃げろ。
それからな、これは生き残るためじゃない。戦闘機乗りは派手に敵の戦闘機と渡り合いたがるが、それよりも爆撃前の爆撃機を狙え。戦闘機よりははるかに組みし易いし、爆撃による一般人への被害も防ぐことができる。制空は俺達が引き受ける。ただし敵の後方機銃には気をつけろよ。日本のものと違って威力がある。なめてかかると命取りになるからな。分かったな。」

「高瀬、何だか苦しくてたまらないんだ。戦争だ、軍人だと言って胸を張っても、民間人の、しかも女や子供が我々より先に殺されていく。何故なんだ。あの戦闘機、海軍のトラックが止めてあったから軍隊と間違えたのか。悔しくてやりきれなくてどうにもならないんだ。出来ることならあの敵の戦闘機、叩き落してやりたい。体当たりしても墜としてやりたい。」

「武田、」

高瀬は茶碗の酒を一口飲んでから言った。

「あの高度で子供と部隊を見間違えると思うか。それにあの低空銃撃、奴等、半端な腕じゃない。あれが戦争なんだ。あれが総力戦なんだ。女子供が撃った弾でも当たれば死ぬ。女子供でも武器は作れる。子供でも大きくなれば立派な戦士だ。総力戦とは一回、二回の戦闘に勝利することじゃない。相手の息の根を止めるまで徹底的に叩きのめすことだ。いいか、武田、戦闘に感情を持ち込むな。それが一番の命取りになる。生きてこの国を守ろうと思うなら、合理的に、そして冷徹に戦え。」

「何のために戦うのか、高瀬、貴様は何のために戦う。国家のためとか民族のためとか、そんな抽象的な理由ではなく、何か目に見える、この手でつかむことが出来るそういうものが欲しいんだ。」

「俺もそれを考え始めていたところだ。ただ、今は適当な理由を思いつかない。」

高瀬は立ち上がって作業ズボンに付いた枯れ草を払った。

「さあ、通夜はお終いだ。明日は早い。」

 高瀬は空になった一升瓶を下げて宿舎に向かって歩き始めた。その後を私も湯飲みを持ってついて行った。宿舎に帰って自分の寝台に横になったが、疲れている割には神経が高ぶっているために容易に寝つかれなかった。無理に眠ろうと目を閉じると機銃掃射で体を砕かれ命を落とした高瀬の恋人や子供達の姿が浮かんだ。そしてその一人一人が助けを求めて必死に自分に向かって手を伸ばしているように思えた。

『軍隊とは一体何のための軍隊で、誰のために戦っているのか。制空権の奪回とは何のための制空権の奪回か。軍隊が今後も軍隊として栄光を保って存在するための戦いなのか。それとも人が穏やかに生活が出来るようにするための戦いなのか。それとももっと他の理由があるのか。』

 様々な思いは頭の中を駆け巡り、容易に治まりそうになかった。そして何の結論も得られないまま、ほんのしばらくまどろんだだけで『搭乗員、起こし。指揮所に集合。』の号令を聞いた。個人の感情がどうあれ、すでに一年半の軍隊生活を経験している私の体はその号令に自動的に反応した。飛行服を身に着け、マフラーを左手に握り締めて宿舎を飛び出すと停まっていたトラックの荷台に飛び乗った。

「乗車よし。」

 最後に乗った搭乗員の点呼と同時にトラックは発進した。早春の空は未だ闇の覆いを払おうとはせず、灯火管制下の基地は闇に包まれていた。トラックが指揮所の付近に止まると搭乗員は一斉に荷台から飛び降りて所定の位置に整列した。

飛行隊ごとに点呼を取ると各飛行隊長が飛行長に申告し、その後に司令が指揮台に上がった。

「諸君に戦ってもらう時が来た。徹底的に敵を撃墜して全員が元気に帰還してもらいたい。」

 司令の短いが意図するところを言い尽くした訓示が終わると各飛行隊長、区隊長に現在の状況及び任務の詳細についての指示があり、その後飛行隊長から本日の任務についての説明を受けた。部隊はここに戦闘準備を完了した。

 東の空が明けてくると第一次制空隊が発進準備に入った。指揮官の高瀬は飛行長に発進の申告をすると小隊長を示す胴体に白い帯を一本描いた紫電に乗り込んで、まだようやく明るみが差してきたばかりの空に向かって七機の列機を率いて飛び立って行った。

 高瀬の部隊が離陸してから一時間、第二次制空隊が発進準備を始めた頃、飛行場の上空を大きく旋回しながら哨戒していた高瀬の部隊に異変が起こった。何か銀色に光る飛行物体が編隊の後尾にかぶさったと思った瞬間、二機が爆発して空中に飛散した。その光景を見て待機所の搭乗員全員が立ち上がった。高速で飛行する銀色の物体が高瀬の編隊の中を斜めに横切って前方に抜けて行った。