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 佐山家を離れると押し付けられていたものがとれて何だか肩が軽くなるような気がした。僕は車を河川敷の公園の方に向けて走らせると適当なところで車を止めた。ちょうど日が落ちて暗くなりかかった公園の片隅で女土方の肩に手を回して抱き寄せると思い切り唇を重ねてやった。大きな山を細かいトラブルや齟齬はいくつもあったもののとにかくも乗り越えて安心したこととそばについていてくれて助けてくれた女土方へのお礼のつもりだったが、女土方は驚いたのか何時かの僕のように体を硬くして身動きもしなかった。

 僕たちがそうしている間車の脇を何人か人が通り過ぎたようだったが、何と思われてもかまうものかとそのまま抱擁を続けた。それにしても法事の格好をした女二人が夕暮れの公園に停めた車の中で抱き合って唇を重ねている図というのは相当異様な光景だっただろう。一一〇番なんかされなくて幸いだったのかもしれない。僕が体を離すと女土方は目を瞑ったまま大きく息を継いだ。

「あの時の仇をとられたわね。なんだか力が入らないわ。でもうれしい。」

女土方はそう言うと目を開いて僕を見つめた。

「さ、ホテルに帰って食事をしてから観光をしましょう。それとも続きをする。」

僕は前を向くとホテルに向けて車を発進させた。

 部屋に帰ると急いで着替えて外に出た。食事ついでにせめて観光の真似事でもと思い小樽運河周辺に繰り出した。特に何か目的があったわけでもなかったが、車を駐車場に入れると二人で運河に沿ってぶらぶらと歩いた。僕自身男の中でも無口な方だったし、女土方も決しておしゃべりな女ではなかったので思い出したように言葉を交わす程度だったが、昼間散々機関銃の掃射のような言葉の攻撃を受けていたのでその方がずっと好ましかった。

 海鮮街という飲食店街で見つけた鮨屋に入って珍しそうなネタを選んでは二人でつまんだ。女連れで鮨屋に行くと割高になると世間では言うが、僕たちはどこから見ても旅行者の女二人連れにしか見えないので、そのせいかどうかは知らないが支払いはそれほど高くもなかった。

 食事を終えてお茶でもと思ったが、女土方が帰ろうと言い出したのでホテルに戻ることにした。車を駐車場に入れてロビーに入ると女土方は急に明るくなって「お茶しよう」と言い出してさっさとラウンジへと入って行った。そして座り心地のよさそうなソファに体を投げ出してタバコに火をつけた。僕も後を追ってソファに体を投げ出すとアイスコーヒーを注文して運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲んでからタバコに火をつけた。

 本当に慌しくて煩わしくて疲れた一日だった。タバコを吸い終わってコーヒーを一口飲むまで黙っていた女土方は僕の方を向いて微笑んだ。

「大変だったわね。でも立派だったわ、あなた。」

 女土方に褒められても自分自身立派にやってのけたと言う気は全くしなかった。しかし何とか終わったのだからそれでいいということにしておこうと結論付けてそれ以上は考えないことにした。

「あなたには本当に余計な気を使わせてしまってごめんなさい。でも本当に心強かったわ、あなたがそばにいてくれて。」

「いいのよ、あなたと一緒で私も楽しかった。それに夕方たくさんお礼をしてもらったし。」

女土方は僕に向かって片目を瞑ると悪戯っぽく微笑んだ。部屋に戻ってローブに着替えて化粧を落とすと本当にのんびりとした気持ちになれた。僕は思い切り石鹸で顔を洗ってしまうのだけど女土方に洗顔フォームを使って丁寧に洗えと叱られてしまった。

「まさかこれまでずっとそうしてきたわけじゃないんでしょうけど、本当に困った人ね。肌が荒れるわよ、そんなことをしていると。」

 化粧を落とした肌は確かに化粧で被った時のように均一な艶やかな色合いはないが、却って細やかに煌めいて生き生きとしているように見えた。人間なんてものは自分が一番好きなやり方でそれが自分に一番良いんだと思い込むことが案外良い結果を生むのかも知れない。

 僕たちは順にシャワーを使うことにした。女土方が先にシャワーを使い、終わると僕と交代した。そして特に理由があった訳ではないが、何時もよりも少し長めに佐山芳恵から預かっている体を清めて部屋に戻った。女土方は窓際に置かれた椅子に腰掛けて外を眺めていたが、僕に気がつくと振り返って「ここにいらっしゃい。」と命令口調で言った。

「なあに。」

僕がそばによると女土方は椅子から立ち上がって僕に向き合った。

「明日はどんなことがあっても私のところに帰って来なさい。ここできちんと約束して。」

女土方の子供っぽい、そして真面目くさった言い方に僕は笑い出してしまった。

「どうしたのよ、子供みたいなことを真面目な顔で。」

「いいから約束しなさい。」

子供のようで有無を言わせないその口調に僕は笑いを押し殺して「私はあなたのところに戻ります。約束・・・」言葉を続けようとしたが僕は最後まで言い終わらないうちに女土方の唇に口を塞がれて言葉を続けることが出来なくなってしまった。

 翌朝はずい分ゆっくり起き出した。そして慌てて朝食を食べようとホテルのラウンジに降りて行った。ビュッフェ形式の朝食は何となく目移りがして食べ過ぎてしまうのが玉に瑕だが、たまのことだからいいとしようと思い直して肉類や果物など多めに皿に取り分けた。女土方もあれやこれやとずい分持ってテーブルに着いた。

 僕は朝食を食べながら今日の昼ここに一体どんな男が来るのか、どう対応するか、戦術を考えていた。女土方は必ず帰ってくるよう約束しろと言っていたが、別に約束なんかしなくとも僕はどんな男でも男のところに行く気なんぞ欠片もなかった。だから変に遠回しに断ると相手に却って期待を持たせたりすることになるかもしれないのでもしも相手の男が少しでも乗り気なのであればはっきり断ること以外に手はないというのが、事ここに及んで僕が至った明確な結論だった。

「何を考えているの。」

女土方が声をかけてきた。

「ん、お見合いのこと、どう断ろうかと思って。」

「すてきな人だったらどうするの。」

女土方は何となく不安なようだった。もしかしたらそれが理由でここまで付いて来たのかも知れなかった。

『すてきとかそんなことは関係ないんだよ。相手が誰だろうと男なんかと肌を合わせるような生活はしたくないんだよ。僕は男なんだから。』

女土方にそう言ってやりたかったが、言っても仕方のないことだから止めておいた。

「男の人の気まぐれや身勝手に付き合わされるのはもうたくさんだわ。今の方が気楽でいい。」

 男の気まぐれや身勝手を散々続けておきながらよく言えたものだと思ったが、その辺は今の哀れな境遇に免じて大目に見てもらおう。そう言っても女土方はまだ不安そうな顔をしていた。そうしてあまり取り付かれるのも面倒だったし、今のところ何を言っても女土方の不安は解消しそうにもないので僕は適当なところで話を切り上げてコーヒーを取りに立ち上がった。

 席に戻ってもさすがに女土方もあまり言いすぎたと思っているのか見合いの話はしなくなった。女土方は僕が男に戻っていくのを極端に恐れていてそれはそれで分からないでもないのだが、僕の方こそ外見は女でも中身は間違いなく男なのだからそのうちに生理的に男を受け付けない女土方に愛想をつかされてしまうかも知れない。しかしその時はその時でまた何とか生き方が開けるだろう。第一この先どうなっていくのかも全く見えなくなってしまったのだからあれこれ心配しても仕方がないだろう。

 こういういい加減さがこれまで何度も自分を窮地に陥れたこともありまた救ってくれたこともあった。こんな性格が良いのか悪いのか分からないが、長所短所などと言っても所詮人の性格など諸刃の剣で状況に応じて良くも悪くもなるものなのだから持って生まれたものを良いの悪いの言ってみても始まらないし、それが自分の性格ならば受け入れないわけには行かないだろうというのが僕の結論だった。