私にも待機の搭乗割りが回ってきた。待機の日は早朝から夕方まで燃料と弾薬を満載した紫電の脇で命令があれば何時でも飛び出せる態勢で待機するのが任務だった。当然訓練はなく、ただ機体の近くに設けられた待機所で待機しているだけの仕事だが、何時発進命令が出るか分からず精神的には非常に疲れる勤務だった。

 幸い最初の待機は即時待機も発進命令もかからず、任務は夕刻解除になった。待機勤務の翌日は訓練も休みとなるので私は飛行長のところに行って外泊許可を受けて隊門を出た。飛行長は『独りか。』と不思議そうな顔をした。高瀬には一言小桜を訪ねることを告げた。高瀬は何も言わずに笑顔で頷いた。
連絡の方法がなかったので小桜のところへはいきなり訪ねることになってしまった。教えてもらった住所を頼りに知らない土地を人に尋ねながら小桜の家を探し当てた。それは町の外れにある武家屋敷の離れのような家だった。木戸をくぐって中に入ると、ちょうどその木戸を閉めようと外に出てきた年配の女性と鉢合わせした。

「柳井さんのお宅はこちらですか。」

私は小桜の本名を告げた。

「ああ、あなたが柳井さんの御主人ですか。奥さんはもうすぐ戻るから中でお茶でも飲んでお待ちになったらいいでしょう。」

私は女性の勧めに従って母屋の玄関先に上がり込んで差し出されたお茶を手に取って口に運んだ。

「あなたは松山の海軍部隊の方ですね。」

突然女性に聞かれた。

「ええ、そうです。」

私は女性に何気なく答えた。

「こんなこと言ったら気を悪くされるかもしれませんが、松山の海軍は飛行機たくさん持ってらっしゃるけど、空襲警報のたびに逃げ回っていると町中うわさになっています。どうして戦わないのですか。陸軍も他の海軍も、特攻だ、玉砕だと言って戦っているのに何故戦わないのだろうと皆そう言って首を傾げています。」

 こうして一般の者から素朴な批判を受けるのは軍の内部で非難を受けるのとは全く違った居たたまれない思いがあった。

「部隊はまもなく練成を終了して戦闘に参加する予定です。皆さんの期待に答えられず本当に申し訳なく思います。」

私は出来るだけ感情を抑えて答えた。

「あなたがたが来てから、たくさんの飛行機が編隊を組んで飛んでいるので、きっと大戦果を挙げてくれるだろうと皆期待して待っていたのに、空襲警報のたびに逃げてばかりだと言ってがっかりしています。」

「本当に申し訳ないと思います。近いうちに必ず敵を打ち破って、」

 私には謝罪以外に言葉がなかった。そして次に口にする言葉を捜していた時、奥から初老の男性が出てきた。男性は「つまらんことを言うのはやめないか。」と女性をたしなめるように言った。

「軍には軍の方針や作戦がある。素人がつまらんことを言うんじゃない。あれだけの数の新型戦闘機を揃え、しかも最近には珍しいなかなかの技量ぞろい。何か大きな戦闘に備えて錬成中なんだろう。ところであれはなんと言う戦闘機かな。零戦ではないようだし、海軍にはあんな戦闘機があったのかな。」

「紫電二一型、川西で製作した局地戦闘機です。局地戦闘機といっても火力は大きいし、機動性も悪くない。増槽を装備すれば足もそこそこ長くなりますし、なかなかいい飛行機です。ただ発動機が究極を狙いすぎて故障が多いのです。しかしお詳しいようですね。海軍にいらっしゃったのですか。」

「ずっと昔のことだよ。まだ布と木で出来た飛行機で空を飛んでいたころのことだよ。」

その時木戸が開く音がした。老人は話を中断して木戸の方に視線を変えた。

「おお、奥方のお帰りのようだな。」

 木戸を閉めて離れの方に向かおうとした小桜を老女が呼び止めた。小桜はその声に弾かれたように振り返ると、小走りに母屋の玄関先に向かって走ってきた。

「何時頃お出でになったのですか。」

小桜は笑みを浮かべながら私に尋ねた。

「少し前だ。こちらのご夫婦にお世話になった。」

小桜は大家の老夫婦に丁寧に礼を言うと、私を離れの方へと促がした。

「お待ちなさい。ご主人が戻ったんだ。酒と肴が要るだろう。」

老人は奥に入ると一升瓶と紙包みを下げて戻ってきた。

「これを持っていきなさい。」

 下げてきた酒と包みを小桜に渡すと老人はまた奥に戻って行った。小桜はもう一度丁寧に礼を言うと離れの方に足を向けた。私は玄関先で奥に向かって敬礼をすると小桜の後をゆっくりと歩いていった。
小桜は離れの引き戸を開けると「どうぞ。」と言う仕草で私を中に招き入れた。中は出入り口に続く台所を兼ねた板の間と奥に八畳と納戸を兼ねた三畳ほどの小部屋があるだけの、離れと言うよりは使用人小屋に近い造りだった。私は板の間の真ん中に置いてある卓袱台の前に腰を下ろした。

「今すぐに支度をしますから。」

小桜はたすきを掛けて、前掛けをするとかまどに火を入れ始めた。そしてかまどに火が点ると今度は土間の奥にある風呂の支度を始めた。

「水は俺が汲んでこよう。」

私は立ち上がると外套と上着を脱ぎ捨てた。

「どうぞ、ゆっくりなさい。私がやりますので。」

 押し止めようとする小桜を押し退けて風呂の戸を開けると手桶を二つ手に取った。小桜に聞いたとおり母屋の裏手の井戸から手桶に水を汲んでは浴槽に水を満たした。春先とはいってもまだまだ寒かったし、水も手がしびれるくらい冷たかったが、久しぶりに家庭の匂いをかいで私は満足していた。

 浴槽が一杯になると風呂を沸かしにかかった。外から運んだ薪を鉈で割いて焚口に差し込んだ。小桜に渡された紙片の上に木の皮や鉈で割いた木片を積み上げて火を点けると目にしみる煙とともに平和な生活への懐かしさがこみ上げてきた。

「上手に点きましたか。」

台所の方から小桜が呼びかけた。

「ああ、大丈夫。」

 小桜に答えながら釜の元に腹這いになって燃え始めた木片を子供のように目を瞬かせて吹きつづけた。
木片が炎をあげて勢いよく燃え始めると今度はその上にうまく隙間が出来るように何本かの薪を重ねた。そしてその隙間にまた木片や樹皮を差し込んで早く薪に火が回るようにした。そうして薪が完全に燃え出すのを確かめてから私は煙で痛む目を擦りながら風呂を離れた。

 台所では勢いよく湯気を上げる釜の横で小桜が包丁を使っていた。私は立ったままぼんやりと小桜の姿を眺めていた。ありふれた光景のはずだったが、何だかずいぶん懐かしい光景だった。釜から立ち上がる湯気からは米を炊く甘く香ばしいやさしい匂いが広がって、私の体に染み込んだ殺伐とした発動機の排気や火薬の匂いと入れ替わっていった。

「米を炊く匂いがこんなに甘くて香ばしいとは思わなかった。」

独り言のように言うと小桜が振り返った。

「もうすぐに用意が出来ますから。たくさん召し上がってください。」

小桜は微笑んだ。

「平和な匂いだな。」

 上がりかまちに腰を下ろしてもう一度辺りを満たしている空気を吸い込んだ。小桜は釜戸の火を遠ざけて中の炭を掻き出すと奥の間の火鉢に移し、その上に一掴みの木炭を載せた。その小さな火鉢に鉄瓶を載せて酒の燗を始めた。私は立ち上がって風呂場の火を見に行った。そして釜戸に一、二本の薪を足して戻った。

「もうお上がりになって。燗がついたら始めてください。後は私がしますから。」

「先に風呂を使ってもいいかな。酒を飲むと面倒になるから。」

 私はもう一度風呂場に立って湯の具合を見た。ぬる目が好きな私にはちょうどいい湯加減だった。小桜が用意してくれた手ぬぐいと着替えを持って風呂場に立った。石をくり抜いて作った風呂桶が目を引く、一人か二人で一杯になってしまいそうな小さな浴場には軍隊の機能一点張りの大浴場とは違った暖かさがあった。

 ゆっくりと時間を気にしない入浴を終わると部屋には和服が用意してあった。

「弟が使っていたものです。丈もちょうど同じくらいですから使ってください。」

 小桜が後からかけてくれた和服を心の中で手を合わせながら羽織ると、小さな卓袱台の前に胡座をかいて座った。卓袱台の上には干物や野菜の煮物、漬物などが並んでいた。

「やあ、これはご馳走だな。こんなご馳走は久しぶりだ。」

 並んだ料理は決して豊かなものではなかったが、金物の食器に盛られた部隊の食事にはない温もりを感じた。

「さあ、どうぞ。」

 小桜に銚子を差し出されて盃を取った。盃を口に運ぶと、つんと鼻を突くアルコールの刺激とほのかに甘い香りが口から体の中に広がった。

「部隊の金飯や茶碗酒とは違って情緒があるね。そうだ、君も一緒にどうだ。もう支度もあらかた終わったろうし。いきなり訪ねて何もしないでご馳走にばかりなっては申し訳ない。」

「ええ、もう大分済みましたから。」

 小桜は前掛けをはずして座敷に上がってきた。盃を差し出すと小桜は受け取って口に運んだ。

「静かですね。こうしていると戦争をしていることなんかうそみたい。」

 盃を置くと小桜が小さな声で言った。実際、発動機の爆音や様々な機械の騒音の中で生活している私には確かに静かな早春の宵だった。